シャトーブリアンの大量処刑(下)『殉難者たちの証言』

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『殉難者たちの証言』

 一九四二年の初め、ニースに滞在中のアラゴンのもとに、部厚い書類がとどけられた。シャトーブリアンの殉難者たちに関する文献であった。「これを歴史的文献にせよ」という手紙が同封されており、その筆跡から、それが党の最高指導者ジャック・デュクロのものであることを、アラゴンは知る。この文書類をまとめて、ひろく訴え、ひとびとに影響をあたえるには、有名な文学者の方がいいと考えて、アラゴンは当時ニースのあたりに住んでいたアンドレ・ジッドとロジェ・マルタン・デュガールに頼んでみたが、二人ともこれを拒否した。そこでアラゴンはみずから筆をとることにした。こうして『殉難者たちの証言』が書かれた。

 「……翌日、殺戮の詳細が判明した。シャトーブリアンから二キロ離れた砂採り場で、彼らは銃殺された。彼らはトラックのなかでマルセイエーズを歌いながら町を横切った。かれらの通るのをみて、人びとは帽子をぬいだ。町じゅうをおおっていた感動が想像される。砂採り場のとなりあわせの農場では、ドイツ兵は農民たちに禁足を命じ、戸口や鎧戸をしめさせ、戸口には機関銃を突きつけていた。
 奇妙な細心さによって、処刑は三つのグループに分けて行われた。砂採り場には、丸太の棒杭が三列、たてられていた。処刑は三回の一斉射撃によって終った。十五時五五分、十六時、十六時十分に。
 二七人の受刑者は、眼かくしをせず、手も縛られずに死んでゆくことを望んだ。かれらは倒れながら、死刑執行人どもを驚かせたのである。かれらは最後の瞬間まで歌っていた。かれらは叫んだ。『フランス万歳、ソヴェト連邦万歳、共産党万歳!』医師トニーヌは、分隊を指揮していたドイツ軍将校に言った。『フランスの将校がどのように死ぬか、よく見るがいい!』そして金属工タンボーは、かれが生涯でいつも示した剛胆さで最後の言葉をえらんだ。それは、フランス人である彼を銃殺した兵隊たちの心に思い出として残らずにはいない途方もない叫びだった。
──『ドイツ共産党万歳!』かれは、最後の煙草を吸うために憲兵に火をもとめた。出がけのトラックのなかから、かれはトンガ大尉に、手きびしい言葉を投げつけた。かれは、かれが生きたように勇敢に死んだ。かれは、われらの友、フランス労働者の一典型として残るだろう。……」

 『殉難者たちの証人』は、一九四二年の秋、独特な方法で、ひとびとの手から手へと渡り始めた。のちにアラゴンは書く。
 「ひとつの思いつきが浮かんだ。どうしてこのテキストを、タイプからタイプへとうつして国じゅうにひろめようとしないのか。(その後まもなく、この経験にもとづいて『星』(エトワール)というシステムが考え出された。それは無限軌道のように、くりかえし継続されるシステムで、われわれはこれを南仏三七県の非合法活動に応用した。)こうして最初の鎖が世に現われた。ニースを通る旅行者は、直接か間接に、わたしからそれを受けとるが、編集してあるおかげで、それはパリから来たものだと思いこむ。こうしてトゥルーズから、リヨンから、モンペリエから、それはふたたびあちこちの地方に散ってゆく。それがわたしの手になったものだとは、一九四四年九月まで、だれも知らなかった。よそに廻すようにと、方ぼうからわたしのところに返ってきたほどである。」
 このテキストはまた、アラゴンのかつての上官レヴィ博士の手をとおして、潜水艦によって国外に持ち出され、あるいはアルゼンチンの新聞特派員によって世界に知らされた。そしてアルジェ、ブラザーヴィル、ロンドン、ボストンなどから、ラジオで放送され、またパンフレットに印刷されて、広く配布された。こうして、ナチスの蛮行を知って、世界世論の憤激は高まって行った。
(この項おわり)

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