シャトーブリアンの大量処刑 (上)人質たち

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 シャトーブリアンの大量処刑

<人質たち>

 一九四一年十月二十一日、西仏ナントにおいて、ドイツ軍大佐ホッツが暗殺された。この襲撃にたいする懲罰として、ドイツ軍司令官シュテュプナーゲルは五十名の人質を銃殺するよう命令する。
 こうして一九四一年十月二十二日、ナントの北方四十キロほどのシャトーブリアンの砂採り場の空地で、二十七人の人質が銃殺された。人質は三つのグループに分けられて処刑された。この犠牲者たちのリストを作成したのは、ヴィシー政府の内相ピュシューであった。囚人たちは眼かくしもされずに死んだ。収容所のバラックのなかで、ほかの抑留者たちが、死におもむく彼らといっしょに、マルセイエーズを合唱した。銃殺された人質のなかには、十七歳のギイ・モッケや学生ラレなどがいた……
 おなじ日、ナント刑務所の二十一人の囚人がおなじく人質として銃殺された。
 のちに、ルーセルという憲兵は、一九四六年一月二十四日のニュルンベルグ国際軍事裁判の法廷で、つぎのように証言する。
 「一九四一年十月二十二日、シャトーブリアンの路上にいた私は、ショワゼル収容所の方角からやってくる四、五台のドイツ軍トラックを見た。先導の自動車の座席には、ひとりのドイツ軍将校が座っていた。手錠をはめられた幾人かの市民がトラックに乗っていてマルセイエーズを歌っていた。一台のトラックは武装したドイツ兵を満載していた……およそ二時間後、それらのトラックは砂採り場からもどってきて、シャトーブリアン城の中庭にはいった。銃殺された人たちの遺体は地下室に並べられて、棺のできあがるのを待った。砂採り場からの帰途、トラックには覆いがかけられ、なんのもの音も聞こえなかった。しかし、トラックから流れでた血の跡は、砂採り場から城までの路上に、糸のように残っていた……」

 シャトーブリアンにおける処刑の翌日、一九四一年十月二十三日、ボルドーで殺されたドイツ軍の一士官の報復として、スージゥで五十名の人質が銃殺される。結局、全部で九十八名の人質が銃殺されたことになる。
 これらの人質の大量処刑を知って、多くの詩人たちが怒りの声を挙げた。カトリックの詩人ピェル・エマニュエルはつぎのように書く。

 人質たち
                     ピェル・エマニュエル

この血は われらの大地のうえに乾くことなく
射ち殺された死者たちは さらされたままでいるだろう
われらは 歯ぎしりしながら じっと黙ってこらえ
うち什された十字架のために 涙を流さぬだろう

だがわれらは この名もない死者たちを思い出し
やつらが数えたように われらの死者たちを数えるだろう
いま歴史の秤(はかり)に 重くのしかかっているものたちも
明日は 自分たちが軽く見られていたのに驚くだろう

また 聞かれるのを怖れて 黙りこんでいるものたちの
その沈黙もまた むろん 赦されぬだろう
弁解をならべるために立ち上がるようなものたちは
もっとも信仰のうすいものたちにさえ非難されるだろう

この死者たち 素朴な死者たちは われらの遺産だ
その血にまみれた哀れな遺体は みんなのものだ
かれらの姿を われらは耕さずに捨ててはおかぬだろう
再び緑になる牧場のほとり 果樹園は花咲くだろう

裸(あら)わな大地のように かれらが空の下に裸(あら)わで
希わくばかれらの血が 愛する泉に とけ入るように
野ばらは 怒りの赤い花花で 蔽うであろう
その血にかきたてられた 荒あらしい春を

希わくば 鳥たちと歌ごえと路上の子供たちにみちあふれて
この春がかれらに えも言えぬほどに甘美であるように
そしてかれらのまわりで ため息をつく森のように
偉大な人民が手をあげて 小声で祈りをあげてくれるように


 この詩は、一九四三年、エリュアールの編集になる『詩人の栄光』に収められて、深夜叢書として非合法に出版された。
(つづく)

<『レジスタンスと詩人たち』白石書店 1981年>

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