世界の共産党員物語 パブロ・ネルーダ(下)

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世界の共産党員物語

──パブロ・ネルーダ(下)

チリ・クーデターに抗して
           大島博光

●ピカソとともに

 一九四九年、警察に追われるネルーダは馬に乗ってアンデスを越え、チリをぬけ出して長い亡命の旅に出ます。ヨーロッパからソビエト、中国を回って歩くことになります。
 一九五〇年十一月、第二回平和擁護世界大会がワルシャワでひらかれました。その会場に、官憲の眼をくぐって、こつ然とネルーダが姿を現わすと、わきあがる満場の拍手によって迎えられたのでした。この有名なエピソードは、ネルーダが世界じゅうの人びとから敬愛されていたことを物語っています。この大会で、彼はピカソとともに世界平和賞を受賞したのです。
 一九五二年、彼は三年半にわたる亡命生活から祖国に帰り、ふたたび政治闘争と文化活動、詩作を始めます。

●人民連合の勝利とノーベル賞受賞

 さて一九七〇年九月、チリの大統領選挙において、全左翼勢力によって結成された人民連合は、社会党のアジェンデを立候補させてこれに勝利します。こうして選挙によって平和裡に人民連合政府が誕生したことは、世界じゅうから祝福され、注目されたのです。

 一九七一年三月、ネルーダは駐仏大使に任命されてパリに赴任します。十月にはノーベル文学賞が彼に与えられます。人民連合の勝利とこの受賞のよろこびを、彼は「その日から」という詩に書きます。

 その日から眠がさめると 世界は見た
 いきなり 人民の勝利を 高く掲げる
 まぎれもない 真実の チリの姿を

 よろこび祝う 世界の声に あわせて
 われらの海と 大地は 歌った

 あの頃だ 田舎者の 詩人がひとり
 パラルからまっすぐストックホルムへ出かけて行って
 星をひとつ もらったのは

 国をおさめてる 本職の王様の手から
 こうして チリの名は もてはやされた
 世界の町町から 鉱山から 畑から
 ……
 この詩のなかのパラルは、チリ中部の町の名で、ネルーダの生地です。また「星をひとつもらった」というのはノーベル賞を指しています。「王様の手から」というのは、ノーベル文学賞は、スウェーデン王立アカデミーが授与することになっているからです。

ノーベル賞

●うじ虫はうごめく

 人民連合政府の成立とノーベル文学賞受賞のよろこびは、しかしつかのまのことでした。
 人民連合政府はさっそくアメリカ独占資本に支配されていた銅山を国有化します。幼稚園のすべての子どもたちに、毎日〇・五リットルの牛乳を無料で配給した政策は有名なものです。こういう人民連合政府を倒すために、アメリカ帝国主義とその手下どもは、謀略をめぐらし、シュナイダー将軍が彼らの申し出でを断ると、将軍を暗殺するというようなテロ活動をくりひろげ、転覆活動を開始します。ネルーダの「蛆虫(うじむし)はまたぞろうごめく」という詩はそういう状況をとらえています。

 情勢は たちまち きびしくなった
 蛆虫(うじむし)どもは またぞろ うごめき出し
 ごろつきどもや 反対党といっしょになって
 「チリには 共産主義の危険がある!」
 こんな いい加減な策略(デマ)をでっちあげ
 ……

 一九七二年になると、人民連合にたいする帝国主義と反動の圧力と謀略活動はますます強くなります。この年の十一月、ネルーダは病気のため駐仏大使を辞任して情勢の切迫した祖国チリに帰ると、ふたたびチリ人民の闘争に参加するのです。
 こうしてネルーダ最後の詩集『ニクソンサイドのすすめとチリ革命への讃歌』が書かれるのです。この詩集でネルーダは、帝国主義とその手下のファシストどもの暴虐暴圧を痛烈な風刺によってバクロし、槍玉にあげています。彼はまず「まえがき」に書きます。
 「かれ(ニクソン)はまた、チリ革命を孤立化させ、崩壊させるために経済封鎖にも干渉した。
 そのためにかれは、種々の手下や、Ⅰ・T・T(多国籍企業=『国際電信電話株式会社』)のスパイ網のような、公然たるスパイどもを使い、また一方ではチリを裏切ったチリ人ファシストどものなかの、もっとも陰険なもの、腹黒いもの、挑発者などをも使った。
 このようにこの詩集の長い題名は、世界の現情勢と近い過去とを反映している……。
 わが人民の敵に立ちむかうわたしの歌は攻撃的であり、アラウカニアの石つぶてのように痛烈なのだ…‥」

デモ


●あくどいピラリン

 一九七三年七月、右翼ファシストの攻勢はいよいよ激烈となります。トラック運送業者たちは反革命ストライキをおこない、お屋敷街の上流夫人たちが街頭に出て、シチュー鍋を叩いて、「肉をよこせ、自由をよこせ」と猿芝居のデモを行う始末です。ネルーダはそれを「情熱的なストライキ」のなかで痛烈に風刺しています。

 手の込んだ 謀略の筋書を 練りあげて
 匕首(あいくち)を手にした Ⅰ・T・Tの後(うしろ)から
 ぞくぞくと現われるは 悪どいピラリンども

 寡頭制に 忠勤はげむ ごろつきども
 組合を売った 札つきの ダラ幹ども
 へんてこな エプロンかけた お医者ども

 大親分のニクソンといっしょに
 やつらは 資本家ストを ぶちまくった
 驢馬(ろば)どものスト でぶっちょどものスト
 成上りの プレー・ボーイどものスト

 それに 大商店の旦那どもも くわわって
 みんな隠した 玉ねぎと サーディンを
 油と煙草(たばこ)を シチュー鍋と小麦粉を

 あとには 光もパンもなんにもない
 匕首つきつけられた 人民と祖国が残った

 この詩のなかのピラリンこそは、トラック・ストの首謀者です。また、右翼の扇動で医者やバス経営者たちがストをおこない、商店までストをうったのです。この資本家ストは一九七三年九月十一日のピノチェト軍部ファシストらによるクーデターの前哨戟だったのです。その日、大統領府の「ラ・モネダ」は包囲爆撃され、アジェンデは最後まで戦って銃殺されます。
 血なまぐさいテロが、全チリ人民のうえに襲いかかりました。共産党、社会党、労働組合などは解散させられ、大学は軍隊によって封鎖されたのです。たくさんの活動家や市民が虐殺されて、河や海に投げこまれたのです。十一日以来、ネルーダの家はファシストの監視下におかれました。サンチアゴとイズラ・ネグラにあるネルーダの家を、ファシストの兵隊どもは数回にわたって土足で踏み荒らし、家宅捜索をし、貴重な蔵書類を持ち去ったのです。こうした圧迫のなかで一九七三年九月二十四日、ネルーダは死んだのです。公式の死因は癌でした。しかし一九七四年三月に来日したアジェンデ未亡人はこう語ったのです。
 「偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。彼は精神の面と肉体の面とで二重に殺されたのです……」
 「胸の痛み」というのは、ネルーダがチリ人民と祖国の運命を心にかけていた心痛のことです。「わたしは黙ってはいない」のなかに彼はこう書いています。

 犬や何かはわたしにはどうでもいい
 わたしには ただ 人民だけが大事なのだ
 ただ 祖国だけが わたしを決定づけるのだ

 わが祖国と人民が わたしの任務をさだめ
 わが人民と祖国が わたしの義務をあきらかにする
 もしも奴らが 人民のうち建てたものをうち殺すなら
 そのとき死ぬのは わが祖国なのだ
 それが心配だ 心痛のたねなのだ

●人民への愛と奉仕の一生

 最後までチリ人民と祖国への愛と奉仕に心をくだき、ファシストに痛撃をくらわしたネルーダは、まさにその心痛のなかで死んだのです。アジェンデ未亡人が「偉大な詩人パブロ・ネルーダ」と呼んだひびきのなかには、やはりこういう詩人への尊敬と敬愛の念がこめられていたのです。
 二日後のネルーダの葬儀は、カービン銑の監視下にもかかわらず盛大におこなわれ、参列者の間から「インターナショナル」の合唱がわきあがりました。それはファシズム反対の最初の大デモンストレーションとなったのです。

 (本文中の詩は新日本文庫『ネルーダ最後の詩集』からの引用です。)

<『月間学習』1987年11月号>
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