サラエボのエッセイと詩…

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 サラエボのエッセイと詩…
                            大島博光

 『ウ一口プ』誌(一九九四年五月号)が、ボスニア文学について小特集を組んでいたので、エッセイ一篇と詩一篇を訳してみた。ボスニアの悲劇を伝えるボスニアの声を聞きたかったからである。
 批評家のスアダ・トゾ・ワルドマンは、『憎しみの拒否』のなかで、セルビアによる大量虐殺の非道を告発している。それとともに、セルビアが爆撃によって、ボスニア・ヘルツェゴビナの国立・大学図書館を、その貴重な文化財もろともに焼失破壊した文化的犯罪は、民族の共同の記憶を抹殺するものであり、戦争の本質をなす蛮行であり、人間狂気のあらわれであると論難している。
 詩の作者のアブダラ・シドランは一九四四年、サラエボに生まれ、詩、小説、シナリオなど、多方面で活動している。──この詩は、サラエボの悲劇が日常のなかで、いわば日常茶飯事として行われていた怖ろしさを描き出している。
 おなじような怖るべき掌篇、ゴラン・シミックの『恋物語』はつぎのようなものである。

   恋物語

 ボスコとアミラの物語は、この春のビッグ・ニュースとなった。サラエボから脱出するために、ニ人は走って橋を渡ろうとした。(未来は向う岸にあると彼らは信じていたが、そのときそこはすでに血にまみれた過去となった。)橋の途中で彼らは死んだ。二人を射った男は制服を着ていたので、人殺しとはみなされなかった。
 せ界じゅうのすべての新聞がボスコとアミラの事件を報じた。イタリアの新聞は、これをボスニアの「ロメオとジュリエット」物語に仕立てた。フランスの新聞は、政治的国境を越えるロマンティックな恋物語と報じた。アメリカの新聞は、二人のなかに、分割された橋の上の二つの民族の象徴を見た。イギリスの新聞は、二人の死体を前にして戦争の不条理を論じた。ロシアは沈黙をまもっていた。若い恋人たちの写真は平和の春の方へ旅立って行った。
 橋の見張り番の兵士で、ボスニア人のわが友プルシックだけがひとり、ボスコとアミラのふくれた死体に、蛆虫や蝿や鴉たちが群がるのを、毎日のように見とどけなければならなかった。春風が橋の向うから死体の腐臭を運んでくる間、彼が毒マスクを着けてぶつくさぼやいているのが聞こえる。
 そのことは、どこの新聞も報じなかった。

(『民主文学』1996年7月号)
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