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西條嫩子(ふたばこ)「父・西条八十の娘も知らぬ断片」

ここでは、「西條嫩子(ふたばこ)「父・西条八十の娘も知らぬ断片」」 に関する記事を紹介しています。
 慶光院芙沙子編集・発行による季刊詩誌『無限』の44号(西條八十特集)は八十の愛娘・西條嫩子が関わり、多くの詩人・文化人が執筆している豊かで貴重なもの。西條嫩子が新聞に書いた紹介記事では博光の「香りのない花束」を取り上げています。

   ◇      ◇      ◇

愛惜の音 限りなく

父・西條八十の娘も知らぬ断片
                           西條嫩子

 こんど「無限」の父西條八十特集ができあがった。表紙からして……あまり見事な抽象画が父の雰囲気そのものなのは利根山光人画伯が父の早稲田の教え子の由……、また、本文の一ページ操るごとに愛情と云うよりもあまりに父に適切な、娘も知らざる父のま新しい断片が眩しく激しく浸透して、一睡もせずに朝まで読み通してしまった。
 このプランを「無限」の社長、慶光院芙沙子氏が私に依頼されたのは昨年六月、定例の詩人クラブ賞発表パーティーの帰途であった。それからまもなく彼女は心筋梗塞の発作で二度も倒れて入院してしまった。
 「血をいっぱい吐いたので、その匂いが残っているの……まるで死の匂いみたい」
 言葉は悲壮だが、彼女の瞳はつぶらに美しくてブルウのガウンがよく似合う……私はふと咽喉の病気で入院するごとに、少年のような微笑が多くなった十余年前の亡き西候の父の眼差しを想い出していた……そのさりげなさに、なんとしても、無限をまとめなければいけない、と何故か率直に決心したのである。
      *
 矢野峰人、島田謹二、佐藤朔、堀口大學(わざわざ病中を寄稿していただいた氏は悲しく既に故人になってしまわれた)の諸氏は父が傾倒し、心も寄せた方々である。また、児童文学の泰斗であられる与田準一氏、藤田圭雄氏もお優しかった。決して先輩ぶらない万年青年のような心を感じさせる平野威馬雄氏はのんびり書きなぐっておられるが、いざ評論となるとフランス知詩人の血が入っていられ故か、オリジナリティがすばらしい。日本語も実になだらかだ。
 父が非常に期待しぬいた教え子で詩人の大島博光氏は父と同じくランボウらの研究家なので、一九八〇年八月のパリのコロネル・ファビヤンの広場から心を籠(こ)めた父への愛惜の詩を寄せられている。
 ………(前略)………
 ある時 先生は言った「生きていたランボオは
 さぞつきあいにくい男だったろうねえ」と
 反抗に燃えてパリ・コミューヌをほめ讃え
 パリのブルジョワどもを罵倒したランボオを
 先生は「若者の若気のいたり」と書いた
 その「若者の若気のいたり」をわたしは
 生涯 つづけることになってしまった
 わたしはまことに不肖の弟子だった
 ………(略)………
 この夏もわたしはシャルルヴィルを訪れた
 駅前の辻公園を通りながらわたしは想った
 五十年むかしここを歩いて行った先生のことを
 大通りの紅(べに)すももの街路樹が北国(ノール)の空に
 暗いえび茶色の茂みをかざしていた
 ………(後略)………
 ランボウの故郷への父の執着は激しく、昭和三十五年、母の死の直後にフランスを訪れた時も、日本へ帰る前日、父はランボウの故郷行きを渇望したが豪雨で果たせなかった。
      *
 そのうち、予期しない程早く、慶光院氏は退院し、詩誌の巻頭に父の新鮮な未発表の詩、少年期の作文など掲載する相談をした。早稲田中学五年生の時の「問」(あひだ)と云う、現代調とは違う緩慢な心理小品には、ながながと仏教の話をする母の姿が描かれているが、事実、孫であった私も祖母の熱心な仏教の呪縛から逃れえなかった。人一倍、母思いの父なればこそ、孤独の母の願いは封じ難かったと想像するし、影響も少なからずと思う。それが父の知性と詩情の葛藤を経て、教会通い、聖書への執着、牧師職への希望ももたらしたと思う。
 大正十一年、父自ら主宰して発刊した詩誌「白孔雀」の良き友であり、同人、理解者であり、比較文学の世界的権威である島田謹二氏はこう述べていられる。──西條さんの世界は、何といっても印象を強烈に表す認識の世界です。それは情緒の世界の表現を主にする。よろこびとかなしみを鋭敏にうけとる力のあらわれでもある。あるいは後悔しはげしい憂鬱がたなびく。それだけこの心境は一そう明るさを求めます──。この心境は父の心に秘められた母の影響の宗教観であり、その神秘性がアイルランドのイエーツやシングの中に摂取せられ、フラマン作家のメーテルリンクに辿りついたように言われる島田謹二氏は、父にあまりに密着して驚くほどである。
 そして私にも難解の詩が幾つかある第一詩集「砂金」を男のひたむきな失恋の詩と述べられ、父の詩は情緒のみならず、深く読みぬくと思想的社会観や人生観が詩の裏に鮮明に隠されていると言われる。
 佐藤朔氏もランボウ論批評に心を寵められ、父の教え子の小説家、井上友一郎氏、寺崎浩氏、新庄嘉章氏なども心なつかしき思い出を寄せられている。先般、父の童話「不思議な窓」をはじめに、小川未明等三百編でアニメ映画を作り、イタリーのグランプリを獲得された木下忠司氏も童話論を下さった。この号は、慶光院氏との合作ゆえに、すべて良かった、とそれのみ思う。
         (詩人)
(『毎日新聞』1981年6月26日夕刊)

*大島博光「香りもない花束──わが師西條八十の思い出に

ふたばこエッセイ
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