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エリュアール・ノート (13)『道徳の教え』・ギリシャ・平和の顔(下)

ここでは、「エリュアール・ノート (13)『道徳の教え』・ギリシャ・平和の顔(下)」 に関する記事を紹介しています。
 そうしてエリュアール再生の奇跡がおこるのは、このメキシコにおいてである。ここで九月の光のなかで彼はドミニックに──最後の恋人に出会ったのである。彼女の出現は調子高く歌われる。

 きみはやってきた すると火はまた燃え上った
 影は消えさり 寒い下界に星が出た
 大地はきみの明るい肉体に蔽われ
 ぼくは身の軽くなるのを感じた
 きみはやってきた 孤独は敗れさった
 ぼくは地上の案内人を持った ぼくは
 行く道をみいだし けた外れの自分を知った
 ぼくは前進し 空間と時間を手に入れた
    *
 畑は耕され 工場は光を放ち
 小麦は果てしないうねりのなかに巣を作り
 穀物や葡萄の取入れは無数の証人をもち
 何ものも単純でもなく単独でもない
 海は空や夜の眼のなかにある
 森は樹木たちにやすらぎを与える
 家々の壁は 共同の皮膚であり
 道はつねに交差する

 人間は生れついている 互いに共鳴するように
 互いに理解し合うように 愛し合うように
 その子供たちも人間の父親となるだろう
 住む家もない子供たちも
 作りだすだろう 人間を
 そして自然と彼らの祖国を
 すべての時代の祖国を
               (『フェニックス』──「死・愛・生」)

 「きみがやってくると孤独は敗れさった」という詩句の意味は、愛の力は孤独をまぎらわすことにあるのではなく、孤独に勝利することにある、ということである。そして『不死鳥(フェニックス)』の扉に詩人は書く。
 「不死鳥は夫婦アダムとイヴである。」
 孤独にうち勝った新しい愛は、ここで愛し合う夫婦(クープル)というかたちをとり、エリュアールの詩のなかに意識的に登場してくる。アラゴンは『ベル・カント通信』に書く。

 「……現代詩には、永遠のプラトニスムの名に、われわれを二度と戻らせることのできぬような新しさがある。男はもはや女なしには考えられないし、女は男なしには考えられないからである。そして現代の愛についての調子たかい表現は,もはやあの愛についての『理念(イデエ)』でもなく、欲望の一方的な表現でもない。それが表現するのはもはや恋人ではなくて、夫婦である。そしてエリュアールの詩はこの新しさによって説明される……」
 エリュアールとドミニックは一九五一年に結婚する。しかしドミニックとの愛は短い。一九四九年九月にメキシコで出合ってから、一九五二年までの数年にすぎない。
一九五一年にはまた有名な「平和の顔」が刊行される。ピカソの石版画──鳩と女の顔をくみあわせた「平和の顔」二十九点シリーズに、エリュアールが二十九篇の詩をかいた詩画集である。

 おれは鳩の棲みかをみんな知っている
 いちばん自然な棲みかは人間の頭の中だ
   *
 あんなに長いこと人間は人間を怖がらせ
 人間の頭の中にいる鳥たちを怖がらせてきた
   *
 おれたちの歌は平和を呼びかけ
 おれたちの答えは平和のために行動すること
   *
 平和の殿堂は
 全世界のうえに建つ

 エリュアールは一九五二年にはまた「ピカソ・デッサン」と題するピカソ論を書く。思えば詩人は生涯をとおしてピカソに多くの詩やエッセイをささげてきた。
 エリュアールの詩にたいするピカソの影響は、「ゲルニカの勝利」を始めとして、社会的現実をうたう序曲となった『民衆のバラ』(ー九三四年)から「ひとりの地平から万人の地平へ」の移行へと、だんだん強くなってゆく。そして詩人と画家はめいめいの作品において協力し、たがいに霊感を与え合う。例えば、ピカソに贈った「画家の仕事」のなかで、エリュアールは画家を両刃の剣をもった自由の化身として歌っている。

 盲人のように狂人のように
 きみは鋭い剣を突き立てる 空虚のなかに……

 きみは鋭い剣を突き立てた
 逆風にひるがえる旗のように

 詩人と画家はおなじ言葉を書き、おなじ言葉を描く。一九五二年に描かれたピカソの壁画──ヴァローリスの「平和の殿堂」の壁を飾っている「載争」のパネルにおいては、画面の左端に、平和と自由の戦士が正義の剣を右手にもち、剣をまっすぐ突き立てて構えている。左手には象徴的なミネルヴァと鳩の紋章のついた楯をもって、破壊と死をあらわす不吉な戦争の柩車をおしとどめるように、これに面とむかって立ちはだかっている。
 またつぎのような持句かある。

 荒野の家の窓べの
 牡牛の耳──その家には傷ついた太陽
 内なる太陽がひきこもる
               (『見せてくれる』──「パブロ・ピカソに」)


 シャルル・パシャが指摘するように、この世界に向かってそばたてた「牡牛の耳」に、ピカソの「赤い牡牛の頭の静物」の模写を見ることができよう。傷ついた太陽とは「内なる眼」である。その眼についてエリュアールは書く。
 「ピカソの高潔寛大な精神は仕事によって説明される。それは、人間が理解し、認め、あるいは変形させうる、つまり描いたり、描き変えることのできるすべてを、人間史のエクランのうえに投影することに熱中し、すべてを見ることに熱中する視覚による仕事である」(「ピカソデッサン」)。
   (つづく)

<『民主文学』1988年8月号>
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