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土井大助「詩人大島博光の生涯」

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詩人大島博光の生涯
                  土井大助

 神を信じたものも/信じなかったものも/
 ドイツ兵に囚われた あの/美しきものを/ともに讃えた
            (アラゴン「薔薇と木犀草」=大島博光訳冒頭)

 詩人大島博光は、二〇〇六年一月九日武蔵野の病院で肺炎のため逝去した。九十五歳。全人生的に傾倒したアラゴンより十年長命。独特の文筆で力戦奮闘した生涯だった。
 戦前・戦後を通してその軌跡は多端である。一九一〇(明治43)年、信州松代の農家に生まれて、十三歳で生母に先立たれ、長じて上京、早大仏文科に進む。「わたしは暗い眼をしたはたちだった」(ソネット「はたち」)と歌った在学中、「エンゲルス『空想より科学へ』や『共産党宣言』を読んで、目のうろこの落ちる思い」で開眼。近くの工場へのビラ配りに参加して逮捕されるが、一札入れて危うく退学処分を免れ、多喜二虐殺の翌三四年に卒業する。
 卒業論文は「アルチュル・ランボオ論」。これで西條八十教授の知遇を得、三五年(昭和10)から十年近く八十主宰の詩誌『蝋人形』の編集を任され、戦争末期の廃刊まで続けた。八十教授の令息西條八束氏は〇七年(平成19)十月に八十二歳で他界されたが、前年一月の博光通夜の席ではこう語られた。「中学生・旧制高校生時代、芸術的に啓発されたのは、詩人の家庭という雰囲気からでなく、専ら大島さんの影響だった」と。
 戦時は「多かれ少なかれ芸術至上主義者であって、きわめて狭い小さな内面生活をうたうことしか知らない」ままで送り、「アナーキイな気ままさ」でモダニズムを擦過する。
 博光青年は招集されても即日帰郷となるほど病弱だった。四四年(昭和19)郷里松代に疎開、翌四五年には三十四歳で群馬の人鈴木静江と結婚、敗戦を迎える。翌春長男朋光が生まれるが、同年二月には長野市の共産党演説会に行きその場で入党、近在の村々で選挙の応援演説をしていた。四八年次男秋光誕生、五〇年二月には、東京都三鷹市下連雀に転居した。夫人は四月から生花店を始め、生活を強力に支える。その年の三鷹、そこがアラゴンに衝撃的な感動を受けた詩人大島博光の出発点となった。五一年、画期的な『フランスの起床ラッパ』が訳出され、翌五二年二月には長野の小熊忠二、山形の斉藤林太郎・丹野茂らと詩誌『角笛』を発行。五月には中野の病院で、青年期からの肺結核を治療するため胸廓成形手術を受ける。九月には長女桃子出生。『角笛』は六二年まで続く。
 その六二年十二月、六〇年安保闘争後の一部に生じた「挫折感」を批判し「詩的実践による詩と現実の変革」を標榜する詩人会議が結成される。直前に創立発起人の大島博光とぼくは初めて出会った。主宰格の壺井繁治も同席していた。両人ともどこか農民的な気骨の風貌を見せながら、至ってダンディ風の身なりなのに目を見張った。その春「十年たったら」というぼくの処女作が壺井選でアカハタに出たばかりだった。
 こうして六三年一月号から詩誌『詩人会議』は創刊された。博光は病身のため、詩運動では控え目だったが、天職の詩才と鍛えたフランス語学力で、詩作にエッセーに詩的力量を発揮した。文学同盟(現民主主義文学会)にも早くから加盟、終生会員だった。還暦過ぎても訳筆は旺盛、『アラゴンとエルザ──抵抗と愛の讃歌』、チリのノーベル賞受賞詩人『ネルーダ詩集』、七三年この詩人が対米従属の軍事クーデター下で憤死するや翌年には『ネルーダ最後の詩集』『愛と革命の詩人ネルーダ』を刊行。同年、夫人を伴いフランス中心に待望の欧州旅行。七八年にはマドリードのチリ支援世界大会に参加した。
 古稀を経た八一年には『レジスタンスと詩人たち』を上梓(八二年にはアラゴンが八十二歳で他界していた)。が、八三年には最愛の夫人がパーキンソン病の療養を始める。翌八四年、ようやく詩集『ひとを愛するものは』を発表。何とこれが詩人大島博光の処女詩集だった。病身でもあってか、自選詩集の上梓には極めて恬淡だった。あとがきに「いままで永いことわたしをささえて、詩を書かせてくれた妻静江にささげる」とあるのは、古稀過ぎてのこの処女詩集成立の背景を示している。この詩集は翌年二月、第十七回多喜二・百合子賞を受賞した。
 『大島博光全詩集』が上梓されたのは八六年三月。処女詩集より数倍手間暇かかる出版だが、原資料の収集整理はすべて闘病中の夫人の丹念で懸命な助力によったものである。
 以後毎年『ピカソ』『ランボオ』『エリュアール』などの評伝を続刊するが、八九年夫人は三鷹市の病院に入院。翌年には傘寿を迎え、新評伝『アラゴン』を出すが、不幸にも九三年二月、静江夫人に先立たれる。深い悲嘆と打撃に打ち勝つため、詩人は苦闘し再起したその自己鞭撻が伴侶三周忌の命日に刊行の第二詩集『老いたるオルフェの歌』である。
 「きょうもわたしは書く/きみの墓碑銘を/…/太陽にむかって走りつづけた/楽天主義者ここに眠る」(墓碑銘Ⅱ)。五十一歳で妻を失い自殺の誘惑にさえ駆られながら「ひとりの地平から万人の地平へ」を書いて危機を克服したエリュアールを模範にして第二詩集を綴り、八十二歳の人生の危機は乗り越えられた。九七年ベトナムの『フイ・カーン詩集』、スペインの二詩人『マチャード/アルベルティ詩集』、〇三年にはフランス抵抗詩人ジャック・ゴーシュロン詩集『不寝番』を刊行、精力的な労作ぶりを示した。
 九六年、第二詩集の出版を祝う会以後は、脚の不自由さも加わって外出できなくなり、入院生活も長かった。〇四年三月末に腸疾患で救急入院した病床でも、詩人はゴーシュロンからの手紙と同封の仏語訳大島博光詩抄(「ひろしまのおとめたちの歌」など五編)の抜刷を見せながら、近くフランスの文化誌『コミューン』に発表予定だそうだ、と明るい声だった。
 詩人大島博光の詩的生命力の源泉は、日本共産党員詩人としての深い自覚と誇りだったと思う。「党員となった時代が、自分の真の時代、真の生活」(市川正一)、これは処女詩集と全詩集の後記に再度記された文言である。この詩人が最も好む動詞「愛する」の湧き出るのもこの泉からにほかならない。

(『大島博光選集1 教えるとは希望を語ること』文藝出版 2008年7月)

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2014/08/03(日) | ケノーベル エージェント