あなたも詩人と知りあって詩の講義を聞くことになったね
『さよなら』の詩を読んでどう思う?
これを読んで 愛について人が考えなければ 無意味だね
たくさんの詩が送られて来るけれど 一人よがりだったり そこへいくと
〈愛〉という言葉を使わずにそれを表現する中野鈴子(中野重治の妹)はそこが天才だね
〈なつかしい〉というのは日本語ではregret(ルグレ)や 過去のことばかりを
言うけれど フランス語で aimable(エマーブル 慕わしい)の意味もあるんだよ
社会科学を勉強しなさい 弁証法を それを身につければ なにも無くったって怖いものは無い 科学とは人間の理性と知性であり それが無かったら 世の中 でたらめになってしまう
精神の が 無かったら全的救いは無いよ
作詞をして自分の名を売ろう 稼ごうとは思わない だけど そういう人を
否定してはいけない 笑ってはいけない 食べていかなくちゃならないわけだし
自分だって人に支えてもらって来た
十三歳で母親が死んで 人生って何だろうってペシミスティックになった
ジャン・バルジャンを見たり 読んだり 文学青年になったわけだ そんな人が
ぽっと田舎から出て来て 当時の大学の雰囲気が勉強になった
現に苦しんでいる人民がいるんだから 芸術至上主義で そこから人の目を
そらそうとしたって何の意味も無い 中野重治だって途中から転向し主流になった
今 彼のことを研究しようという人は誰もいない
アラゴンの偉い所は苦しむ人を見捨てなかったことだよ
NHKテレビ番組『雨の神宮外苑 学徒出陣』
それを〈運命〉や〈諦め〉と言っちゃいけない
社会の仕組みが悪いんだから それを変えなくちゃ そこを言わなければうそだよ
Elan Vital(エラン ヴィタル)だよ ベルグソンの生的飛躍
ロベールの辞書には ちゃぁんとベルグソンの引用も出ている
哲学ではもう時代遅れになっても 言葉ではちゃぁんと残っているんだね
アラゴン著『ブランシュとは誰だ』(稲田三吉訳)の文中の詩人?の一行
Nous sommes rien, (?)est tout これをどう訳す?
この人たちは「私たちは何もない」と訳している
「私たちは無である 向かうもの(?)がすべてだ」と私なら訳す
無と有 東洋の思想だね
これ読んで 声出して.... もういいよ いかにつまらないかわかったから
形而上のことばかり 人間の生活が無いじゃないの métaphysiqueなことばかり
アラゴンの『Fornicateur』(フォルニカチュール)を読んでごらん
(おもしろそうに微笑まれ)いかに私の訳がいいかがわかるから
今まで詩を書いていたんだ 詩人はあれだね できたものはどうかということは
ともかく あれこれ詩を考えている時が一番楽しいね
詩らしきものを書いてお見せした時に
極めて生活に即して歌っているね こういうものもいいけれど詩は精神の高みを歌わなくては意味が無い それを言わないで今日雨が降ってどうのと言ったて何の意味も無い あなたが詩人じゃないから言うけどね この詩は人間の深みや高みを表していないじゃないの いわば皮膚の表面的なことしか書いていない あなたが詩人ならぺしゃんこだよ そういう詩がいかに多いか 自分のまわりのつまらないことばかりでね
あなたの詩はミスティフィカシオン 日本語では韜晦(とうかい)という
ほかの冒険ばかりしないで エラン・アンテレクチュエル(知的飛躍)もしてください
また『エルザの狂人』をやってみようと思う ジャック・ゴーシュロンのに『エルザの狂人』が書いてある 明日読んでみよう
中野重治だって転向して 死ぬときに決して良い人生だったなんて思っていないよ
自分をごまかすことはできない
(尾池和子「大島博光語録Ⅰ」〈2006年3月〉より)
『さよなら』の詩を読んでどう思う?
これを読んで 愛について人が考えなければ 無意味だね
たくさんの詩が送られて来るけれど 一人よがりだったり そこへいくと
〈愛〉という言葉を使わずにそれを表現する中野鈴子(中野重治の妹)はそこが天才だね
〈なつかしい〉というのは日本語ではregret(ルグレ)や 過去のことばかりを
言うけれど フランス語で aimable(エマーブル 慕わしい)の意味もあるんだよ
社会科学を勉強しなさい 弁証法を それを身につければ なにも無くったって怖いものは無い 科学とは人間の理性と知性であり それが無かったら 世の中 でたらめになってしまう
精神の が 無かったら全的救いは無いよ
作詞をして自分の名を売ろう 稼ごうとは思わない だけど そういう人を
否定してはいけない 笑ってはいけない 食べていかなくちゃならないわけだし
自分だって人に支えてもらって来た
十三歳で母親が死んで 人生って何だろうってペシミスティックになった
ジャン・バルジャンを見たり 読んだり 文学青年になったわけだ そんな人が
ぽっと田舎から出て来て 当時の大学の雰囲気が勉強になった
現に苦しんでいる人民がいるんだから 芸術至上主義で そこから人の目を
そらそうとしたって何の意味も無い 中野重治だって途中から転向し主流になった
今 彼のことを研究しようという人は誰もいない
アラゴンの偉い所は苦しむ人を見捨てなかったことだよ
NHKテレビ番組『雨の神宮外苑 学徒出陣』
それを〈運命〉や〈諦め〉と言っちゃいけない
社会の仕組みが悪いんだから それを変えなくちゃ そこを言わなければうそだよ
Elan Vital(エラン ヴィタル)だよ ベルグソンの生的飛躍
ロベールの辞書には ちゃぁんとベルグソンの引用も出ている
哲学ではもう時代遅れになっても 言葉ではちゃぁんと残っているんだね
アラゴン著『ブランシュとは誰だ』(稲田三吉訳)の文中の詩人?の一行
Nous sommes rien, (?)est tout これをどう訳す?
この人たちは「私たちは何もない」と訳している
「私たちは無である 向かうもの(?)がすべてだ」と私なら訳す
無と有 東洋の思想だね
これ読んで 声出して.... もういいよ いかにつまらないかわかったから
形而上のことばかり 人間の生活が無いじゃないの métaphysiqueなことばかり
アラゴンの『Fornicateur』(フォルニカチュール)を読んでごらん
(おもしろそうに微笑まれ)いかに私の訳がいいかがわかるから
今まで詩を書いていたんだ 詩人はあれだね できたものはどうかということは
ともかく あれこれ詩を考えている時が一番楽しいね
詩らしきものを書いてお見せした時に
極めて生活に即して歌っているね こういうものもいいけれど詩は精神の高みを歌わなくては意味が無い それを言わないで今日雨が降ってどうのと言ったて何の意味も無い あなたが詩人じゃないから言うけどね この詩は人間の深みや高みを表していないじゃないの いわば皮膚の表面的なことしか書いていない あなたが詩人ならぺしゃんこだよ そういう詩がいかに多いか 自分のまわりのつまらないことばかりでね
あなたの詩はミスティフィカシオン 日本語では韜晦(とうかい)という
ほかの冒険ばかりしないで エラン・アンテレクチュエル(知的飛躍)もしてください
また『エルザの狂人』をやってみようと思う ジャック・ゴーシュロンのに『エルザの狂人』が書いてある 明日読んでみよう
中野重治だって転向して 死ぬときに決して良い人生だったなんて思っていないよ
自分をごまかすことはできない
(尾池和子「大島博光語録Ⅰ」〈2006年3月〉より)
- 関連記事
-
-
<いつから詩人になろうと思ったのですか?> 2010/11/01
-
詩がどんどん出てくる 2010/10/14
-
プロコフィエフのサンフォニーのような詩 2010/10/12
-
アラゴンの偉大さ 2010/01/18
-
あなたも詩人と知りあって 2009/07/29
-
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/221-9a055d80
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック