ランボオ・ピカソ・モダニズム (4)

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(4)
 近代的自我とモダニズム

 ところで、この近代的自我というものを社会学的に考えてみますと、わたしもあまり詳しい知識があるわけではありませんが、近代的自我はおよそブルジョワ民主主義革命とともに始まったと言ってもいいだろうと思います。ところがこの領域でも、一九三〇年代、四〇年代に唱えられた「近代の超克」が再び登場してきて、あわせて天皇崇拝などが新しい意匠のもとにあげつらわれています。そういう点でも、近代的自我というものを発展させるものは、進歩的な人民の側、人民の立場にあると思います。
 だから、いま提出されようとしている国家機密法などという悪法は、むかしの治安推持法とおなじように、近代的自我の発展、展開を妨げ、人間性そのものをも小さく歪めてしまうものだと思います。文学の分野で言うと、あの小さな私小説の世界、社会性をもたない、狭いわたくしごとだけが描かれた小説、詩歌、あれはまさに明治以来の日本支配層の弾圧政策、とりわけ治安維持法による弾圧、それが与える恐怖、脅威が生みだした文学様式だといっても過言ではないと思います。そうしてそれはいまなお、日本の文学芸術を社会的なものに向かわせず、社会性をもつことを妨げ、政治をふくめての現実世界を描くことを禁制としているのです。こういう日本の遅れた、歪められた文学のありようにたいする、鮮烈で痛烈なアンチ・テーゼが、宮本百合子の文学であり、それを支えたのが彼女の偉大な近代的自我であったと、わたしは思います。ああいう苛酷な弾圧の条件のもとで、あらゆる拷問や迫害とたたかいながら、宮本百合子があのように近代的自我を大きく発展させ展開させて、大きな作品、傑作、広い評論を創造し展開し得たということは、わたしなどにとっては、驚嘆してあまりあるものです。それはむろん、党と科学的社会主義の理論と実践にささえられてのことですが、アラゴン風に言えば、彼女こそ偉大な「共産主義的人間」ということになりましょう。
  もうひとつ、絵画の分野で言えば、藤田嗣治のように、ヨーロッパ的知性やヨーロッパ的精神で育ったひとが、戦争中、日本に帰ってくると、ああいう戦争画を描かせられる、描かざるをえなかったという弱さも、やはり近代的自我と政治状況との関係のなかで出てくる問題の一つだろうと思います。
(つづく)

(文化評論1987年4月号)
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