アヴィニョンにおけるピカソ展──愛について(下)

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 この頃の多くの作品において、愛はジャックリーヌにたいする愛の歌として取り扱われていたが、この主題はピカソの手にかかるときわめて強烈な力と多様性をもつにいたり、そうして普遍的な生の力を獲得することになる。そこに描かれている女たちの裸像は、解剖学を無視した扇情的な自由さをもって描かれ、自然体よりも女性の原型への執着をもって構成されている。彼女たちの性器(セックス)は鮮やかな山の谷のように描(か)きこまれ、彼女たちの乳房は熟(う)れた果実のように描かれている。くちづけをし抱擁しあう男と女はひとつにとけあい、その顔を陶酔にゆがめて愛の行為の成就のうちに潰えさる。
 このピカソの愛について、詩人アルベルティはつぎのように書く。
 「こんにち、パブロ・ピカソのように、愛を描き、あるいはデッサンすることは、春画(ポルノグラフ)とは反対に正当なことである。それは健康であり、青春のたくましさであり、永遠のしるしである。ピカソは限界を越える。ピカソは誇張する。ピカソはすべてを普通とはちがった尺度で現わし、われわれはそれを楽しむ。そしてすでに描かれ、あるいはデッサンされた接吻やその他の画面のなかに、(まさに破廉恥な春画(ポルノグラフ)として非難される画面のなかに)、われわれが見いだし、認識するのは、ほかならぬピカソそのひとであり、彼の持続への熱烈な欲望であり、彼の生の躍動であり、抑制である。それらは、その最高の瞬間におけるよりもいっそう大胆なファンタジーと自由さとをもって造形的に表現されているのである。画家が愛のさなかの肉体たちに与えるねじれ、ゆがみ、明らかな破壊は、情念、激情、歓喜、悲哀、優しさ、疲労、生と死であり、一言でいえば、あの美しくも怖るべき戦術的手段を試みる充実した瞬間における、愛の闘争以外のものではない。こうして青年ピカソはおのれを表現しつづける。彼の男らしさはつねに彼の全作品のうえに重くのしかかっている。われわれはそれを限りない生、すなわち永遠と呼ぶ。

 ……ピカソはこんにち版画を彫り、輪郭──とりわけきわめて露わなエロティックな場面の輪郭をデッサンする。躍動とヴァイタリティと抑制をもって。まるで八十九歳の彼の手は、現代のもっとも若わかしい手だと言われてもいいようだ……

 ここでは、すべては接吻(くちづけ)のひびきであり、えも言えぬ抱擁の開花であり、愛のなかでからみあった肉体たちの戦慄であり、定められた瞬間をのがさないように行動しようと緊張したピカソ的熱狂である。そこでは、ほんの一瞬のうちに生ぜんたいが要約され得るし、永遠の息吹がそこを吹きぬけるかも知れない。

 これらの愛のヴィジョンのあるものの中からは、やはり怪物たちの分解された唸りや沈黙が聞かれるとしても、この光景はきわめて古典的である。そこにはアンチーブの青空の下の、海辺での昼寝、砂の上での愛の襲撃など、楽しい日々の思い出がある。それらの軽やかな線のなかには、眼に見えない海の存在が感じられる。銅版のうえにラファエルとフォルナリーナの愛の闘いを堂々と描いたと同じ手の躍動が感じられる。

 ピカソのように、このようなリリスムの段階に線を高めた詩人はかつてなかった。そこには、ぴんと張った絃(いと)をとつぜん爪弾(つまび)いたときのような振動がある……ピカソはここで悪魔のペンというよりはむしろ天使のペンでデッサンしている。彼は恋人たちを破滅させていない。反対に、恋人たちの裸の肉体は、彼のギリシャ的な気晴らしのデッサンに近い官能的な美に到達しており、あるいは日本のエロティックな版画をはるかに思い出させる……」(R・アルベルティ「アヴィニョンにおけるピカソ」)
(この項おわり)

<新日本新書『ピカソ』>

ピカソ画集

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