パリ・コミューンと詩人たち ──パリ・コミューン百周年に寄せて──(下)

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 こうして、この革命がブルジョアジーにとってきわめて危険なものであることを感じとったヴェルサイユ政府は、この革命を粉砕しようと決意する。ここでビスマルクは、休戦条約の条項を破って、捕虜にしていたフランス兵をチェールに返してやる(第二次大戦においても、ヒットラーは多くの捕虜をペタンに返えしてやった。返えされた捕虜たちは、ペタンの手先となって、レジスタンスの愛国者たちを追及し弾圧する役割をひきうけたのである)。そのおかげで、チェールはフランス人民にたいする残虐な戦争を始め、プロシア軍の応援を得て、勝利する。それは野蛮な弾圧で、とりわけ「血の週間」として知られている最後の期間には、バリケードの上で大量虐殺が行われ、コミューンの連盟兵たちが多数殺されたペール・ラシェーズの墓地の塀は、「連盟兵の塀」として有名である。老若男女を問わず、十万人以上の市民が虐殺され、多くの者が投獄され、あるいは南太平洋の仏領ニューカレドニア島に流刑された。パリ・コミューンにたいする弾圧は、反動が人民にしかけた、もっとも非道な、もっとも非人間的な戦争の怖るべきエピソードとして残っている。こうしてフランスの労働運動が力を回復し、一八八〇年、被追放者たちの大赦をかちとるまでには、じつに九年の歳月を必要とした。
 その怖るべき「血の週間」を、ジャン・バチスト・クレマンはつぎのように描いている。

  うろつく密偵や 憲兵どものほか
  街通りに 見えるものとては
  涙にくれる哀れな年寄りと 後家さんと
  親を失くした みなし児(ご)ばかり
  パリは 惨めさで いっぱいだ
  運よく助かった者さえ 顛えている
  はばをきかすのは 軍法会議だ
  街まちの舗道は 血だらけだ

  前警視庁の 御用記者たち
  腐った奴らに ぺてん師ども
  どさくさまぎれの 成金たち
  勲章ぶらさげた奴に おべっか使い
  街角の兄いや きんちゃく切り
  それにあばずれ女の 情夫たちが
  蛆虫のように 寄ってたかっているわ
  コミューン戦士の 屍(かばね)のうえに

  手あたり次第に ひっ捕らえ
  追い立て 縛り 射(ぶ)ち殺す
  娘をかばった おふくろまで
  年寄りの抱いた赤ん坊まで
  赤旗の 懲罰にとって代って
  怖ろしい テロをふるうのは
  淫売窟の ならずものども
  皇帝や王の 下僕 従卒ども

  あしたからは 警察のやつらが
  じぶんの役目を 鼻にかけて
  ピストルを 腰にぶらさげて
  街をわがもの顔に のし歩くさ
  パンも 職も 武器もない
  このおれたちを 抑えつけるのは
  密偵に 憲兵どもだ
  首斬り役人に 坊主どもだ

 また、コミューンの婦人革命家として有名なルイズ・ミッシェルは、ヴェルサイユの牢獄に投げこまれたが、つぎのような烈々たる復讐に燃えた詩を、獄中で書いている。題名は「革命は敗れた」である。

  兄弟たち われわれはまたくるぞ
  あらゆる道をとおって やってくるぞ
  闇から出てくる 復讐の幽霊のように
  われらは 腕をくんで やってくるぞ

  友よ すべては終った 逞(たくま)しかった者も
  勇敢だった者も みんな倒れてしまった
  そうしてもう 降服した者 卑怯者
  裏切り者たちは 這いつくばっている!

  おお わが愛するものよ 共和国よ
  おまえのために みんなが血を流した
  愛国の歌を 高らかに歌いながら
  みんなが 嬉々として 倒れて行った
  そうだ われらはまたくる 兄弟たち
  死のうが生きようが またくるぞ
  いたるところに 赤旗をなびかせて
  暴君どもを やっつけよう!

  大鎌に なぎ倒された 草のように
  たくさんの戦士たちが 倒れてしまった
  こんど われらが勝利するときには
  一騎当千で たたかわねばならぬ

  おお われらが 復讐にくる時まで
  おまえたち おのれの罪に怖れおののき
  おのれの白色テロルに 顔も蒼ざめ
  できるものなら 枕を高くして眠るがいい!

 コミューンは敗北したが、しかし世界の労働者階級の歴史において、コミューンはきわめて高く評価されている。マルクスは、一八七一年四月十七日付けのクーゲルマン宛の手紙に書いている。
 「資本家階級とその国家とにたいする労働者階級の闘争は、このパリの闘争によって新しい段階にはいった。この事件の直接の成りゆきがどうであろうと、これによって世界史的な重要性をもつ一つの新しい出発点が獲得されたのだ」(邦訳国民文庫版『フランスおける内乱』一六九ページ)
 ところで、コミューンの詩は、労働者クラブで朗読され、街頭で歌われ、小冊子に印刷されて呼売りにされた。また、負傷した戦士たちを元気づけるために塹壕やバリケードのうえで歌われた。
 しかし、コミューンの詩の多くは、弾圧を避けるために、焼かれたり、捨てられたり、隠されたりした。こうして、ランボオの「パリの恋びとたち」「パリの死」の二編の詩は二度と発見されなかったのである。
 それにもかかわらず、プロシア軍によるパリ包囲とコミューンの七十二日のあいだに、多くの詩が書き残された。それらの詩には、プロレタリアの勝利にたいする熱烈な信頼と希望、ヴェルサイユ政府にたいする痛烈な風刺、民衆の生活のなかの喜び陽気さなどが歌われている。それら多くの詩人は無名の詩人であって、おそらく「血の週間」のバリケードのうえで死んで行ったにちがいない。大量虐殺の悪夢、亡命の困難さ、投獄の恐怖などで、コミューンの詩はだんだんと衰え、消えてゆく。しかし、ポティエの「インターナショナル」や、ジャン・バチスト・クレマンの「血の週間」などは、非合法にひろめられたのである。
 またルイズ・ミッシェルやクロヴィス・ユーグのような詩人たちは、投獄された後も、獄中の困難な条件のなかで、多くの作品を書きつづけた。ルイズ・ミッシェルのごときは、南太平洋の孤島ニューカレドニア島に流刑されたが、その流刑先でもなお書きつづけた。彼女は、ブルジョアジーの裁判官に面と向って侮蔑を投げつけたのち、敗北した革命を悲しみ、復讐と新しい革命とを、ひとびとに呼びかけたのである。
 ヴィクトル・ユゴー、ヴェルレーヌ、アルチュール・ランボオなど、有名な詩人たちもコミューンについて歌っているが、ここではそれらにふれる余裕がなかったことを付記しておきたい。
                 (おおしま ひろみつ・詩人)
(完)

(『文化評論』1971年4月号)

パリ・コミューン

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