パリ・コミューンと詩人たち ──パリ・コミューン百周年に寄せて──(中)

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 三月二十六日のコミューン選挙によって選ばれた国民議会の構成は、雑多なものであった。議員となった、ブルジョアおよび小ブルジョアの共和主義者たちは、初めはコミューンを支持していたが、コミューンがプロレタリアートを土台とした全く新しい政治形態をとりはじめるやいなや、かれらはコミューンから離れてゆく。しかし、すぐれた指導者、労働者、第一インターナショナルのメンバーなどの推進力の下に、コミューンはその七十二日の存命ちゅうにすばらしい事業を実行する。マルクスは書いた。
 「コミューンの偉大な社会的方策は、行動するコミューンそのものの存在だった。コミューンの個別的な諸方策は、人民による人民の政府のすすむべき方向を示すことしかできなかった。……」(邦訳国民文庫版『フランスにおける内乱』九二ページ)
 レーニンは、マルクスの分析をさらに発展させて言った。
 「コミューンは、プロレタリア革命によって『ついに発見された』、労働の経済的解放をなしとげるための形態である」(邦訳国民文庫版『国家と革命』七四ページ)

 ところで、詩人たちはどのようにコミューンをうたっているだろうか。「インターナショナル」の作者、ユージュヌ・ポティエは、コミューンから十六年後の一八八七年に、「一八七一年三月十八日を記念する」という詩を、コミューンにささげている。

  どんな貧乏の どん底にいようと
  同志たちよ おれたちは心をあわせ
  酒杯(さかずき)をあわせ 歌ごえをあわせて
  この偉大な記念日を 祝おうではないか

  きょうは 人民の日だ! 蜂起した人民は
  敵の不意討ちを 撃ちくだいた
  大地は顛えとどろき 舗道は この日
  バリケードとなったことを 思い出す
       
  よみがえらせよう このすばらしい思い出を
  歴史は けっして繰り返しはしない
  三月十九日は いまにやってくる
  新しい明日(あす)の日の 序曲なのだ

  司令部の 裏切り者どもの命令に
  連盟兵たちは どよめき立った
  怒り狂った 「三十スー*」たちは
  自分の大砲を 自分の手に確保した
  すると 臆病で 愚かな 権力は
  深夜にまぎれて 姿をくらました
  パリは 首に手綱を巻きつけられながら
  新しい世界の始まったのを 感じる

  人民よ それはおまえの胎(はら)から出てきた
  名もないひとたちの 勝利の日だった
  仕事着をきて 腕もあらわな独裁者たち
  その名を聞いて 城壁までが肝をつぶした
  そうして 身ぶりも 堂々と
  売国奴たちの議会に 反旗をひるがえし
  威風りんりんとした 中央委員会**は
  プロレタリアの 集団(あつまり)だったのだ

  勝ち誇った市役所には ぎっしりと
  陽焼けした群衆が 詰めかけていた
  パリは まるで子供のように うれしそうに
  いまや 「コミューン」を宣言した
  大砲の音が 目を覚ませ ととどろき
  ブルジョアジーに 敗北を告げた
  群衆は 歌声を高らかにあげながら
  陽を浴びて さかんに練り歩いていた

  それは すべてが芽ぶく「芽月(ジェルミナール)***」の
  なんとも 輝やかしい 朝だった
  人民は その眼をそっと開いて見たのだ
  ひるがえる 赤旗の すばらしさを
  ぼろぼろの旗の縁(ふち)が 金色に輝やき
  青い地平線が 赤旗に 照り映え
  暗い地獄のような 炭坑のなかの
  一条の光までが そこに射し込んでいた
  
 *「三十スー」──連盟兵たちの日給は三十スーであった。
 **中央委員会──国民軍(民兵)中央委員会は、一八七一年一月に創設された。
 ***「芽月」──ジェルミナール。フランス共和歴第七月。三月二十一日から四月十八日までを指す。ポティエが、ここで「芽月」という共和暦を使用したのは、「コミューン」の宣言が、三月二十八日だったからである。

 「パリは まるで子供のように うれしそうに/いまや 『コミューン」を 宣言した」というポティエの詩句は、歓呼をもってコミューンを迎えた人民の歓喜を、目に見えるように描いている。
(つづく)

(『文化評論』1971年4月号)
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