また、一九六二年十月末、キューバにたいするアメリカの軍事干渉の危機に際して、ピカソは皿の上のエビや魚などを襲おうとする獰猛な猫を描き、その翌日、ダヴィドの「サビーヌ人たちの反乱」やプッサンの「幼な子たちの虐殺」のテーマによるヴァリエーションを描く。馬に乗った戦士が剣をふりかざしながら女をふみにじっている。それはまるで「ゲルニカ」から出てきた女のように見える。右手の窓では、やはり「ゲルニカ」のもうひとりの女が叫んでいる。こうして虐殺の叫喚と狂気にみちた大作「サビーヌ人たちの虐殺」が描かれた。エレーヌ・パルムランは言う。
「戦士たちは……楯をもち、虐殺をもたらす。彼らはプッサンの、ダヴィドの、あるいはピカソの馬に乗って、ユダヤの、ローマの、ゲルニカの女たちを殺している……この絵は善と悪について、残酷について、幼な子について、苦しみについて、弱さについて語っている。」(「画家とそのモデル」)
これらピカソの巨匠たちとの対話についてはいろいろな見方がある。フェルミジェは言う。
「これらのヴァリエーションは皮肉でほとんど冒涜的な攻撃性を示している。その動機は依然として神秘である。」
またアラゴンはこの問題についてつぎのような詩句を書いている。
亡霊たちと対話をひらくほどに
おのれを空(むなし)うしようとしてやめなかった男のあとを
彼自身のかなたに どのように追い辿ろう
画布の上に降りてくる夜を拒むために悲壮に選びだされた あの人たち
あの選ばれた好敵手たちのカタローグ
あの チェス勝負
会話しながら 彼らに投げる あの挑戦
その会話も クラナッハ レンブラント・ヴァン・リジン
「草上の昼食」あるいは
「女官たち」とは 終ったらしい
お坐りください アルジェの婦人方
こんにちは ムッシュー・クールベ
こんにちは ダヴィド こんにちは みなさん
さあ お入りください
いまは 出会いの季節ですから
おお 問いを投げかける 画家たちよ
その問いに 彼だけが答える
絶えず自分自身を否定することで
……
そしてわたしは空しく 彼の眩暈(めくるめき)のなかに
彼の逃走のなかに 彼のあとを追い
空しく狂人のように 炎によって火に意味を与えようとするのか
(「パブロ・ピカソと呼ばれる若者の大いなる日のための演説」)
ところで、注目すべきことは、ピカソによる巨匠たちの選択が行きあたりばったりではなかったことである。その晩年、ピカソがくりかえし執拗にとり組んだテーマ、画家の前の女、つまり「画家とそのモデル」──ここにこそピカソが巨匠たちのなかに見いだしたテーマの本質がある。この青春にみちた老人にとって、女はおごそかなものであると同時に、いつにもまして魅力的なものであった。この時期のピカソの多くの絵は、肉体的自由への情熱を表現している。アングルの「トルコ風呂」に霊感をえたといわれる、一九六八年のエッチングでは、画家とモデルの関係はきわめて官能的な愛を示している。「アルジェの女たち」は、ドラクロワでは退屈しているが、ピカソではいらだっている。ピカソの「草上の昼食」では、裸婦と彼女をみつめる画家とは向き合っている。
一言でいえば、カリフォルニー荘の孤独な幸福のなかで、ピカソは過去の巨匠たちを相手に、「画家とそのモデル」のテーマを追い、それについての瞑想を遠く馳せたのであった。それは内面的なレアリティーの深い追求であって、そこにおいて円熟と充実の境地にあったピカソは、画家と妻の関係のなかに、夫婦のもっとも鋭い愛情の発露をみいだしたのである。
(この項おわり)
<新日本新書『ピカソ』>
「戦士たちは……楯をもち、虐殺をもたらす。彼らはプッサンの、ダヴィドの、あるいはピカソの馬に乗って、ユダヤの、ローマの、ゲルニカの女たちを殺している……この絵は善と悪について、残酷について、幼な子について、苦しみについて、弱さについて語っている。」(「画家とそのモデル」)
これらピカソの巨匠たちとの対話についてはいろいろな見方がある。フェルミジェは言う。
「これらのヴァリエーションは皮肉でほとんど冒涜的な攻撃性を示している。その動機は依然として神秘である。」
またアラゴンはこの問題についてつぎのような詩句を書いている。
亡霊たちと対話をひらくほどに
おのれを空(むなし)うしようとしてやめなかった男のあとを
彼自身のかなたに どのように追い辿ろう
画布の上に降りてくる夜を拒むために悲壮に選びだされた あの人たち
あの選ばれた好敵手たちのカタローグ
あの チェス勝負
会話しながら 彼らに投げる あの挑戦
その会話も クラナッハ レンブラント・ヴァン・リジン
「草上の昼食」あるいは
「女官たち」とは 終ったらしい
お坐りください アルジェの婦人方
こんにちは ムッシュー・クールベ
こんにちは ダヴィド こんにちは みなさん
さあ お入りください
いまは 出会いの季節ですから
おお 問いを投げかける 画家たちよ
その問いに 彼だけが答える
絶えず自分自身を否定することで
……
そしてわたしは空しく 彼の眩暈(めくるめき)のなかに
彼の逃走のなかに 彼のあとを追い
空しく狂人のように 炎によって火に意味を与えようとするのか
(「パブロ・ピカソと呼ばれる若者の大いなる日のための演説」)
ところで、注目すべきことは、ピカソによる巨匠たちの選択が行きあたりばったりではなかったことである。その晩年、ピカソがくりかえし執拗にとり組んだテーマ、画家の前の女、つまり「画家とそのモデル」──ここにこそピカソが巨匠たちのなかに見いだしたテーマの本質がある。この青春にみちた老人にとって、女はおごそかなものであると同時に、いつにもまして魅力的なものであった。この時期のピカソの多くの絵は、肉体的自由への情熱を表現している。アングルの「トルコ風呂」に霊感をえたといわれる、一九六八年のエッチングでは、画家とモデルの関係はきわめて官能的な愛を示している。「アルジェの女たち」は、ドラクロワでは退屈しているが、ピカソではいらだっている。ピカソの「草上の昼食」では、裸婦と彼女をみつめる画家とは向き合っている。
一言でいえば、カリフォルニー荘の孤独な幸福のなかで、ピカソは過去の巨匠たちを相手に、「画家とそのモデル」のテーマを追い、それについての瞑想を遠く馳せたのであった。それは内面的なレアリティーの深い追求であって、そこにおいて円熟と充実の境地にあったピカソは、画家と妻の関係のなかに、夫婦のもっとも鋭い愛情の発露をみいだしたのである。
(この項おわり)
<新日本新書『ピカソ』>
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