世界の共産党員物語 ピカソ(上)青年時代  スペイン人民との結びつき

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世界の共産党員物語(7)
ピカソ(上) 青年時代
●スペイン人民との結びつき
                   大島博光(詩人・フランス文学者)

 二十世紀最大の傑作といわれる絵画「ゲルニカ」の画家ピカソ、世界じゅうを飛びまわった、平和運動のポスターの「鳩」を描いた画家ピカソ──そのピカソが、共産党員であったことはあまりよく知られていないようです。
 ブルジョア批評家たちは、共産党員ピカソにはできるだけふれないように努め、ふれる場合には、ピカソはただ共産党に利用されただけだとか、平和の「鳩」はアラゴンがピカソのところから盗みだしたものだとか、いって、ピカソを共産党から引きはなし、あるいは事実をゆがめて、〝解毒″をはかっているのです。
 そうしてピカソは悪魔的な力と理想とに引きさかれているといって、心理分析の図式を描いてみせる批評家もいれば、実存主義の文句でピカソをきらびやかに飾ったり、難解な形而上学的な言葉を長ながとつらねる者もおり、あるいはピカソをひたすら魔術師として語り、崎型(きけい)学として語る者もいるといったありさまです。
 しかし、人間ピカソの姿が明らかになり、彼の生涯の時代時代と芸術の展開発展の関係が明らかになるにつれて、彼の芸術とその意義もまた、ますます明らかになってきているのです。「ピカソを雑誌や漫画新聞の伝説でしか知らなかった数百万の人びとが、とつぜん作り笑いをやめて、ピカソを心から信頼しはじめたのだ」とアラゴンはいいます。たくさんの人びとが、「ゲルニカ」と「鳩」の画家ピカソが自分たちと無縁ではなくて、自分たちの仲間だということを感じはじめたのです。
 人間ピカソ、画家ピカソ、そうして共産党員ピカソのあとを少しばかり追ってみましょう。

●ピカソの生いたち
 パブロ・ピカソは、一八八一年十月二十五日、スペインのアンダルシア地方マラガに生まれました。父親のドン・ホセは絵の教師で、ピカソに小さな子どもの時から絵を描くことを教えたのです。
 またドン・ホセは、絵にたいする自然な愛着と同時に、闘牛にたいする愛着を息子に伝えます。ピカソにスペイン的な精神と形象をあたえたものは、まさにこの闘牛だったといえましょう。九歳のピカソが残している最初の油絵は牡牛であり、闘牛士なのです。この闘牛への愛着、執着は、作品においても生活においても生涯ピカソから、消えることはありませんでした。晩年、南仏ムージャンに居をかまえたころには、アルルやニームの闘牛場に、ピカソはその姿をあらわしたのです。
 ピカソはわずか十五歳でバルセロナの美術学校の入学試験にパスします。もう彼はアカデミックな絵画修業をひととおり終わっていたのです。そのころピカソの一家が住んでいたバルセロナは、文化的にも活気にみちた街で、若いピカソが世界へ飛躍する跳躍台となります。
 ここでピカソが青年期を迎えたころ──十九世紀末におけるスペインの社会状況を見てみましょう。それは画家ピカソの生成にとっても無縁ではないからです。
 「学校の先生よりももっと貧乏」というスペインのことわざがあるように、絵の教師ドン・ホセ一家の生活もらくなものではなかったのです。ピカソは自分の最初のパリ旅行にふれて、友人サバルテスにこう語っています。
 「おやじは旅費をくれて、おふくろといっしょに見送ってくれた。だが、家に帰れば、おやじにはもう何ぼかしのかねも残っていなかったのだ……」
 つまり、そのころも、こんにちでも、スペインでは貧乏はきわめてありふれたものだったのです。
 一九〇三年から一九〇五年にいたるいわゆる「青の時代」のピカソの絵には、乞食たちが寒そうにうずくまっていたり、やせ細った旅芸人たちが、途方にくれたような表情で立っています。それらは、そのころのスペインの貧困さ、みじめさそのもののイメージなのです。当時のスペインの歴史は、貧農の反抗とプロレタリアートの闘争でみちみちているのです。
 一八九〇年、ヘレス地方の日雇労働着たちは町を襲撃しています。一八九−年、カタルーニヤの葡萄園の小作人たちは、土地闘争のために立ち上がっています。一八九〇年、バルセロナでは、バクーニン主義者の指導する暴動が起きています。一八九二、三、四年とつづいて、ビルバオの炭坑労働者たちは会社側の監視に反対し、バラック住宅の改善、強制的な給食反対、労働時間の短縮などを要求して大ストライキを敢行しています。「カタルーニヤの工場地帯では、週に三日だけ働き、バルセロナでは工場閉鎖で一万七千人の失業者で溢れていた」(ブルーゲーラ『スペイン現代史』)のです。
 また当時バルセロナではアナーキスムの運動が盛んで、暴動や騒乱が頻発していたのです。ピカソの一九〇一年ころのデッサン、「アナーキストの集会」「囚人」などは、彼がバルセロナの街頭で見た光景を描いたものにちがいありません。

●オルタとコソルの村で
 十七歳のピカソは一八九八年の夏を、病気静養をかねて、友人バヤレスの山の村の家で過ごします。そこはタラゴナ地方の高地にある、オルタ・デ・エブロという村でした。彼は村の人たちにとけこんで暮らし、鍛冶屋、靴屋、農民たちの働く姿を見、彼らからそれぞれものをつくる技法を教わるのが好きだったといわれます。サバルテスはつぎのよう語っています。
 「……ピカソはみんなといっしょに働いた。森の仕事や庭での仕事や、家畜の世話など……彼は百姓のズック靴をはいて、驢馬(ロバ)の世話をし、井戸から水を汲み、ひとびとに話しかけ、しつかりと荷造りをし、生馬に荷物を積み、牛乳をしばり、かまどに火を燃やして米をたき、その他いろんなことどもをした。彼はよくこう言ったものだ。『わたしの知っていることはみんな、オルタ・デ・エブロの村でおぼえたものだ』と……」
 このエピソードほどに、ピカソの庶民性を物語っているものはありません。こうしてピカソは生涯にわたってスペイン人民とふかく結びつくことになります。
 「このオルタ滞在は、ピカソ伝説における最初の『素朴主義者(プリミチヴィスト』のエピソードとなる」と批評家フエルミジエはいって、つぎのように書いています。
 「……彼は生涯、ひじょうに素朴で野性的な男であり……態度は直接的であり、冷酷さと同時にあたたかい人間的な寛大さをもっている。……彼の外見、身なり、生き方はまるで労働者や村の職人のそれに似ている。そして恐らく、彼の政治参加、貧しい人たち、無知で何ひとつ持っていない人たちにたいする同情ほど本心からのものはない」
 その後まもなくパリに出て、ピカソは大画家への道を歩み始めます。しかしときどきバルセロナへ帰ったり、夏にはスペインの山地へ出かけるのが好きでした。
一九〇六年の春には、彼は愛人のフエルナンドといっしょに、ピレネーの高地にあるゴソルの村を訪れます。このときも健康を害していたので、静養をかねての旅でした。ゴソルの村は海抜一四二三㍍の高地にあって、あたりは野性にあふれた雄大な風景でした。村の生活ぶりも、オルタ・デ・エブロにもまして素朴なものでした。そのころのピカソの姿を、愛人のフェルナンド・オリヴィエはこう書いています。
 「そのころ、彼には故国の雰囲気が必要でした。そしてそれは彼の創作欲を刺戟したのです。あそこで描かれた習作には、きわめて強烈な感動、感覚がただよっています……スペインで見たピカソは、パリにいるピカソとはひどくちがっていました。陽気で、人づきあいもよくなり、もっと生きいきとして元気で、落ちついてものごとにうち込んでいました……
 彼は農民たちとつきあうのが好きで、彼らからも好かれていました。彼はのびのびと自由にふるまい、彼らといっしょに酒をのみ、彼らといっしょに遊びました。あの不毛で荒涼とした雄大な風景のなかで……彼はパリにいる時のように、社会の外にはみ出ているようには見えませんでした。……この密輸入者のいっぱいいる村で、彼はなんとちがった人間になり、どれほどうちとけた人間になったことでしょう。彼は密輸入者たちの長い物語に熱心に耳傾けて、まるで子どものように面白がっていました……」
 これがキュビスムの画家になる数年前のピカソの姿です。故国の親しい風物と人びとのなかにうちとけて暮らし、民衆の話に耳を傾け、故国の人民と結びついたピカソの姿です。
(本稿は拙著『ピカソ』(新日本出版社)に拠って書かれています。詳しくは同書を参照されたい。)
  キュビスム
  一九〇七〜一四年ころピカソやブラックによって創始され、フランスを中心におこった美術運動(派)の名称で、立体主義または立体派と訳されています。
(『月間学習』1987年12月号)


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