パリの赤い街区をゆく 旅のノートから
大島博光(詩人)
やっぱり、運命はわたしをパリの赤い街区へと運んだ。わたしに与えられた宿は、パリ十区のコロネル・ファビアン広場に近い、ヴィレット大通り。レジスタンスの時代、地下鉄のソルフェリーノ駅でピストルでナチのドイツ軍将校を射殺して、最初の武装闘争の火ぶたを切った英雄が、共産党員コロネル・ファビアンである。彼の名前が、彼の生まれたこのヴイレット大通りの小さな広場に与えられでいるのである。
この広場に面して、黒いガラス張りのフランス共産党本部のモダンなビルが立っている。数年前にここを訪れたときには、広場に面して羽目板の柵をめぐらしてまだエ事中であったが、こんど見て驚いたことに、本部の前の広い芝生のなかに、直径十㍍ほどもあるコンクリートの丸いドームが、ちょうど大きなお椀(わん)をふせたように盛り上がっている。新しい抽象的構図の庭園設計かと思ったら、このドームの下が地下の会議室となっているらしい。
ゾラの「居酒屋」の舞台で
ヴィレット大通りには、左石三つの車道のあいだに、二列のマロニエの街路樹を並べた広い分離帯があって、その街路樹のあいだに八百屋や肉屋の市がならんだり、駐車場になったりしている。
広場から見て右側の歩道に、また一列、にせアカシアの街路樹がつづいている。広場からベルヴィルの方へくだっていくにつれて、街の汚れや、ぼろとまではゆかなくとも、汚い脹を着た人たちが目につく。それから左側の奥の方が、ゾラの「居酒屋」の舞台で知られるメニルモンタンである。それから、ペールラシェーズの墓地の方に近づくと、また街はきれいになってゆく。こんな街を、子どものファビアンは遊びまわったのにちがいない。
ファビアン広場から、共産党本部の前のなだらかな坂道をのぼってゆくと、ほどなくビュット・ショーモン公園の前に出る。あたりの壁には、さすがに地元らしく、赤地に白の共産党のビラがはってある。
「物価値上げ反対の統一行動を共産党とともに!」「政治の流れを変えるために より強大な共産党を──入党されよ」
まるで、そのまま日本共産党のビラを読んでいるような気がする……。
また、九月十三日、十四日にパリ北郊ラ・クールヌーヴでひらかれるユマニテ祭のビラもはってあり、「真実をもとめて、わたしはユマニテを読む」というポスターも見られる。
ビュット・ショーモン公園にはいると、とっつきの築山の黒松とひいらぎの陰にクローヴィス・ユグの小さな胸像が立っているのに気がつく。ユグはバリ・コミューンの詩人で、ペール・ラシェーズの「連盟兵の壁」のまえで、ベルサイユ軍とブルジョアジーがコミューンの戦士を虐殺した事件を告発しつづけた。そしてこのビュット・ショーモンの丘でも、当時、巨大な火葬場がつくられて、コミューン戦士や市民の死体を幾日も焼き続けたということだ。
ジョギング姿に見とれて…
丘の下に、ちょうど井の頭公園の池の半分くらいの池がある。何人もの老若男女が、いま流行のジョギングというか、マラソンというか、をやっている。若い美しいパリ娘が、二、三人ならんで大きな乳房をブルンブルンとゆさぶりながら、足どりも軽やかに、踊るように走っている。思わず見とれてしまうほどだ。
この池で数人の釣り師が、鯉釣りをしている。リールで投げ込んだ浮き釣りで、釣針にはパンをまるめたのや、ジャガイモの角切りを使っている。
四十センチほどのが一尾釣れたが、あまり釣れないらしい。魚影が少いからだ。水が澄んでいて泳いでいる鯉が見える。全部の鯉を数えても数十尾はいないだろう。こんなに自由に釣り上げても稚魚を放流することはしないらしい。わが多摩川の魚影の濃い釣り場を思うことしきりである……。
(一九八〇年八月十二日 記、大島さんはパリ滞在中)
<『赤旗』 1980年8月>
大島博光(詩人)
やっぱり、運命はわたしをパリの赤い街区へと運んだ。わたしに与えられた宿は、パリ十区のコロネル・ファビアン広場に近い、ヴィレット大通り。レジスタンスの時代、地下鉄のソルフェリーノ駅でピストルでナチのドイツ軍将校を射殺して、最初の武装闘争の火ぶたを切った英雄が、共産党員コロネル・ファビアンである。彼の名前が、彼の生まれたこのヴイレット大通りの小さな広場に与えられでいるのである。
この広場に面して、黒いガラス張りのフランス共産党本部のモダンなビルが立っている。数年前にここを訪れたときには、広場に面して羽目板の柵をめぐらしてまだエ事中であったが、こんど見て驚いたことに、本部の前の広い芝生のなかに、直径十㍍ほどもあるコンクリートの丸いドームが、ちょうど大きなお椀(わん)をふせたように盛り上がっている。新しい抽象的構図の庭園設計かと思ったら、このドームの下が地下の会議室となっているらしい。
ゾラの「居酒屋」の舞台で
ヴィレット大通りには、左石三つの車道のあいだに、二列のマロニエの街路樹を並べた広い分離帯があって、その街路樹のあいだに八百屋や肉屋の市がならんだり、駐車場になったりしている。
広場から見て右側の歩道に、また一列、にせアカシアの街路樹がつづいている。広場からベルヴィルの方へくだっていくにつれて、街の汚れや、ぼろとまではゆかなくとも、汚い脹を着た人たちが目につく。それから左側の奥の方が、ゾラの「居酒屋」の舞台で知られるメニルモンタンである。それから、ペールラシェーズの墓地の方に近づくと、また街はきれいになってゆく。こんな街を、子どものファビアンは遊びまわったのにちがいない。
ファビアン広場から、共産党本部の前のなだらかな坂道をのぼってゆくと、ほどなくビュット・ショーモン公園の前に出る。あたりの壁には、さすがに地元らしく、赤地に白の共産党のビラがはってある。
「物価値上げ反対の統一行動を共産党とともに!」「政治の流れを変えるために より強大な共産党を──入党されよ」
まるで、そのまま日本共産党のビラを読んでいるような気がする……。
また、九月十三日、十四日にパリ北郊ラ・クールヌーヴでひらかれるユマニテ祭のビラもはってあり、「真実をもとめて、わたしはユマニテを読む」というポスターも見られる。
ビュット・ショーモン公園にはいると、とっつきの築山の黒松とひいらぎの陰にクローヴィス・ユグの小さな胸像が立っているのに気がつく。ユグはバリ・コミューンの詩人で、ペール・ラシェーズの「連盟兵の壁」のまえで、ベルサイユ軍とブルジョアジーがコミューンの戦士を虐殺した事件を告発しつづけた。そしてこのビュット・ショーモンの丘でも、当時、巨大な火葬場がつくられて、コミューン戦士や市民の死体を幾日も焼き続けたということだ。
ジョギング姿に見とれて…
丘の下に、ちょうど井の頭公園の池の半分くらいの池がある。何人もの老若男女が、いま流行のジョギングというか、マラソンというか、をやっている。若い美しいパリ娘が、二、三人ならんで大きな乳房をブルンブルンとゆさぶりながら、足どりも軽やかに、踊るように走っている。思わず見とれてしまうほどだ。
この池で数人の釣り師が、鯉釣りをしている。リールで投げ込んだ浮き釣りで、釣針にはパンをまるめたのや、ジャガイモの角切りを使っている。
四十センチほどのが一尾釣れたが、あまり釣れないらしい。魚影が少いからだ。水が澄んでいて泳いでいる鯉が見える。全部の鯉を数えても数十尾はいないだろう。こんなに自由に釣り上げても稚魚を放流することはしないらしい。わが多摩川の魚影の濃い釣り場を思うことしきりである……。
(一九八〇年八月十二日 記、大島さんはパリ滞在中)
<『赤旗』 1980年8月>
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