(2)
一九四七年、息子のクロードが生まれる。六十歳を越えたピカソは、父親の悦びをもって子供を描く。子供は新しいテーマとなる。ゆりかごのなかのクロード、母親の腕に抱かれたクロード、ベビー・ベッドに寝て、玩具を握っているクロード……そこには父親の愛情がにじみでている。
一九四九年四月十九日、ちょうど第一回世界平和擁護大会の前日に娘が生まれ、鳩にちなんでパロマと名づけられる。二人の子供が大きくなるにつれて絵も増える。二人の子供が遊んでいるところ、歩いているところ、食事をしているところ、眠っているところなどが描かれる。「描くクロードを見るパロマ」では、ピカソの手法はさらに変わる。かつてパピエ・コレ(貼り紙)で用いられた手法がふたたび採用され、一九二八年の一連の絵に見られるような、形と色との分離、対照がみいだされる。
ちょうどこの時期、一九五四年にひらかれたピカソ展のカタログにアラゴンが序文を書いている。そこにはアラゴンのレアリスムに立っての絵画批評が見られよう。
「ここには一九五〇年から一九五四年にいたるピカソが展示されている。それはひとりの抽象的な人間ではない。彼はヴアローリスに住んでいる。彼の庭には牝山羊が一匹いる。彼には二人の子供がある。男の子のクロードは一九五〇年には三歳である。『鳩』の名をもつ娘のパロマは、一九四九年の春、第一回世界平和擁護大会の開会の朝、パリで生まれた。いたるところで、ピカソを特徴づけるのは自由だと吹聴されているが、この画家のきわめて独特な性格をなすものは、少なくともわたしにとっては、それはあの自由ではなくて、彼が現実に属しているという点である。……
たしかに、この展覧会に見られる最近の作品では、二つの作品群、つまり二つのテーマ──子供たちのテーマ、若い女のテーマが、結局その他を圧倒している。
わたしはいまテーマ……と言った。それは誤解されるかも知れない。『艶(えん)なる宴(うたげ)』Fêtes galantes はひとつのテーマであり、あるいは牧歌も林檎もそうである。しかし、この子供たちは一般化されたものではなく、ひとつの口実、きっかけではない。それは一定の子供たち、画家の子供たちである。この絵は、自分の子供を前にした画家の驚きをあらわしている。……この驚きはまさにピカソの言葉で表現されている。それについてひとは好きなように思いを馳せるだろう。わたしを捉えるのはその人間的性格である。……
牧神は消えうせた。われわれは相変らず地中海の海辺にいる。……そこには相変らず家族がいる。一九五〇年の『描く妻と子供たち』では、やっと大まかに描かれた母親が、横になって、ソファから子供たちを見守っている。『二人の子供たち』(一九五一年)では男の子が誇らかに自分の自転車をつかんでいる。『オレンジをもった母親』(一九五一年)そして一九五四年の絵では、地面に画を描いているクロードをパロマが見つめている、その場面を母親が腕でとり巻いている……等々。それはもはや象徴的な幸福の図ではない。それは家のなかに子供たちが、母親が、出現したということである。子供たちはもはやたんに何もわからずに生きているあの肉体ではなく、すでに兄と妹の関係が現われ、すでにパロマは絵を描くクロードを見つめている。すでにその手は考え、クロードは描く。そしてパロマはこの不思議なことがら、この始まり、絵を描き始めたクロードを見つめている。すでに彼女は自分じしんでやってみようと思い始める……
もちろん、それらすべては、ピカソの画法(グラフィスム)において、あの光の配分、あの色彩の配分をもって表現されている。あの色彩のスペイン風な大胆さ、画面の他の部分の灰色や白ときびしい対照をなしている紫色、赤、太い黒い線のデッサン、あるいは暗い地のうえの白いチョーク。こんどはパロマが絵を描いている図では(『パロマといっしょに絵を描くクロード』)、画家は、はじめて自分の息子のなかに少年を、小学生をみとめている。……このことは、この手法、描き方の物語とは別のことをわたしに夢みさせる。ひとはそれをわたしに許してくれるだろう。それとも否か。……」(一九五四年、パリの「思想の家」でひらかれた「ピカソ二つの時期一九〇〇年──一九一四年および一九五〇年──一九五四年」展のカタログの序文)
注目していいことば、アラゴンがここで、ピカソの絵画に彼じしんの家族が出現したことを強調している点である。むろんここで強調されている家・家族は、人間の自由な発展を束縛するような桎梏としての家・家族ではない。アラゴンがここで念頭においている家族とはつぎのようなもので、それはポール・シュワットのインタビューで語ったものである。
「……わたしは共産主義をつぎのようなものとして想い描いている。つまり、よく結びつき、おたがいに忠実で、愛しあう、幸福な男女の一組が、社会の基礎となるような社会として想い描いている……」
家族を描いたピカソの絵が、アラゴンの眼に、「象徴的な幸福」以上のものに映ったのはこのためであろう。
じっさい、その頃のピカソは、満ちたりた家族の優しい父親ぶりを発揮し、肉体的にも若返った老人としてふるまっている。彼は地中海の海辺に居をかまえ、太陽と浜辺の悦びに浸る。
一九五一年七月三十一日の『芸術』誌の「ヴァカンス」特集号は「海辺のピカソ」を掲載している。
「毎朝十一時半になると、大きなイスパノ・スイザ種の黒と灰の牝犬がヴアローリスから降りてくる。牝犬はゴルフ・ジュアンの浜辺、レストラン・ヌーヌーの前にとまる。つづいてピカソの全家族が降りてきて海水浴をする……ピカソは子供たちのために砂のうえに画を描いてみせる……日々の海水浴は彼にとって、体操や精神的休養におとらず、彼の生命力と自然との欠くことのできぬ接触となる……」
ミノトールはアンチーブの市民となり、アルカディヤ(古代ギリシャの楽園)の羊飼いとなり、粘土と火の労働者となる。
(つづく)
<新日本新書「ピカソ」>
一九四七年、息子のクロードが生まれる。六十歳を越えたピカソは、父親の悦びをもって子供を描く。子供は新しいテーマとなる。ゆりかごのなかのクロード、母親の腕に抱かれたクロード、ベビー・ベッドに寝て、玩具を握っているクロード……そこには父親の愛情がにじみでている。
一九四九年四月十九日、ちょうど第一回世界平和擁護大会の前日に娘が生まれ、鳩にちなんでパロマと名づけられる。二人の子供が大きくなるにつれて絵も増える。二人の子供が遊んでいるところ、歩いているところ、食事をしているところ、眠っているところなどが描かれる。「描くクロードを見るパロマ」では、ピカソの手法はさらに変わる。かつてパピエ・コレ(貼り紙)で用いられた手法がふたたび採用され、一九二八年の一連の絵に見られるような、形と色との分離、対照がみいだされる。
ちょうどこの時期、一九五四年にひらかれたピカソ展のカタログにアラゴンが序文を書いている。そこにはアラゴンのレアリスムに立っての絵画批評が見られよう。
「ここには一九五〇年から一九五四年にいたるピカソが展示されている。それはひとりの抽象的な人間ではない。彼はヴアローリスに住んでいる。彼の庭には牝山羊が一匹いる。彼には二人の子供がある。男の子のクロードは一九五〇年には三歳である。『鳩』の名をもつ娘のパロマは、一九四九年の春、第一回世界平和擁護大会の開会の朝、パリで生まれた。いたるところで、ピカソを特徴づけるのは自由だと吹聴されているが、この画家のきわめて独特な性格をなすものは、少なくともわたしにとっては、それはあの自由ではなくて、彼が現実に属しているという点である。……
たしかに、この展覧会に見られる最近の作品では、二つの作品群、つまり二つのテーマ──子供たちのテーマ、若い女のテーマが、結局その他を圧倒している。
わたしはいまテーマ……と言った。それは誤解されるかも知れない。『艶(えん)なる宴(うたげ)』Fêtes galantes はひとつのテーマであり、あるいは牧歌も林檎もそうである。しかし、この子供たちは一般化されたものではなく、ひとつの口実、きっかけではない。それは一定の子供たち、画家の子供たちである。この絵は、自分の子供を前にした画家の驚きをあらわしている。……この驚きはまさにピカソの言葉で表現されている。それについてひとは好きなように思いを馳せるだろう。わたしを捉えるのはその人間的性格である。……
牧神は消えうせた。われわれは相変らず地中海の海辺にいる。……そこには相変らず家族がいる。一九五〇年の『描く妻と子供たち』では、やっと大まかに描かれた母親が、横になって、ソファから子供たちを見守っている。『二人の子供たち』(一九五一年)では男の子が誇らかに自分の自転車をつかんでいる。『オレンジをもった母親』(一九五一年)そして一九五四年の絵では、地面に画を描いているクロードをパロマが見つめている、その場面を母親が腕でとり巻いている……等々。それはもはや象徴的な幸福の図ではない。それは家のなかに子供たちが、母親が、出現したということである。子供たちはもはやたんに何もわからずに生きているあの肉体ではなく、すでに兄と妹の関係が現われ、すでにパロマは絵を描くクロードを見つめている。すでにその手は考え、クロードは描く。そしてパロマはこの不思議なことがら、この始まり、絵を描き始めたクロードを見つめている。すでに彼女は自分じしんでやってみようと思い始める……
もちろん、それらすべては、ピカソの画法(グラフィスム)において、あの光の配分、あの色彩の配分をもって表現されている。あの色彩のスペイン風な大胆さ、画面の他の部分の灰色や白ときびしい対照をなしている紫色、赤、太い黒い線のデッサン、あるいは暗い地のうえの白いチョーク。こんどはパロマが絵を描いている図では(『パロマといっしょに絵を描くクロード』)、画家は、はじめて自分の息子のなかに少年を、小学生をみとめている。……このことは、この手法、描き方の物語とは別のことをわたしに夢みさせる。ひとはそれをわたしに許してくれるだろう。それとも否か。……」(一九五四年、パリの「思想の家」でひらかれた「ピカソ二つの時期一九〇〇年──一九一四年および一九五〇年──一九五四年」展のカタログの序文)
注目していいことば、アラゴンがここで、ピカソの絵画に彼じしんの家族が出現したことを強調している点である。むろんここで強調されている家・家族は、人間の自由な発展を束縛するような桎梏としての家・家族ではない。アラゴンがここで念頭においている家族とはつぎのようなもので、それはポール・シュワットのインタビューで語ったものである。
「……わたしは共産主義をつぎのようなものとして想い描いている。つまり、よく結びつき、おたがいに忠実で、愛しあう、幸福な男女の一組が、社会の基礎となるような社会として想い描いている……」
家族を描いたピカソの絵が、アラゴンの眼に、「象徴的な幸福」以上のものに映ったのはこのためであろう。
じっさい、その頃のピカソは、満ちたりた家族の優しい父親ぶりを発揮し、肉体的にも若返った老人としてふるまっている。彼は地中海の海辺に居をかまえ、太陽と浜辺の悦びに浸る。
一九五一年七月三十一日の『芸術』誌の「ヴァカンス」特集号は「海辺のピカソ」を掲載している。
「毎朝十一時半になると、大きなイスパノ・スイザ種の黒と灰の牝犬がヴアローリスから降りてくる。牝犬はゴルフ・ジュアンの浜辺、レストラン・ヌーヌーの前にとまる。つづいてピカソの全家族が降りてきて海水浴をする……ピカソは子供たちのために砂のうえに画を描いてみせる……日々の海水浴は彼にとって、体操や精神的休養におとらず、彼の生命力と自然との欠くことのできぬ接触となる……」
ミノトールはアンチーブの市民となり、アルカディヤ(古代ギリシャの楽園)の羊飼いとなり、粘土と火の労働者となる。
(つづく)
<新日本新書「ピカソ」>
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