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シャヴァンヌ 4 作家の心理(下)

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4 作家の心理(下)

 シャヴァンヌはすべてを自分の藝術、自己の絵画に結びつけて考へないでは居られなかった。自己の藝術に関係の無い様なものには何者にも興味を抱かなかった。彼の作品に就いて、不正確な或いは不当の意図の下に為された一つの言葉、一つの会話、一つの文章も彼をひどく苦しめ、そして激しい怒りを抱いた。彼が言葉や文章に依って反発する時には、彼の激しい皮肉や苛烈な言葉が相手をおそふのであった。又、或る新聞記者が素朴にも、誰を大家として取るかと尋ねた時、彼は簡単に《私だ》と答へたのも、極めて真面目だったに違ひない。彼には見事なエゴイズムが在ったと云へよう。彼の神経質は人の考えられない程ひどかった。サロンが始まる前日頃、彼は習慣によって社交界の夫人を招き、ヌウリイのアトリエで夜を自己の作品を披露し、又、夕方、優雅さと慇懃さとを以って夫人達を庭園に案内した。彼が部屋に帰ってきた時、一人の弟子は彼の手に泉の水が流れてゐるのを見た。近づいてみると、彼の掌は血が滲んでゐた。夫人達の不作法な会話を聞いて憤激した彼は自分の爪を掌に突き刺したのであった。《私は自分の絵をひとに見せるとき、まるで人の前で自分が赤裸になる様な気がする》と彼はしばしば語ってゐた。

 シャヴァンヌはその明るさと力強さとエゴイズムと思想とによって、よくギリシャ的楽天家と考えられるが、それは洞察を欠いた心理分析家の幻想にすぎない。彼の天性が如何に堅固に見えたにせよ、その芸術的信念が如何に熱烈なものであったにせよ、シャヴァンヌの生涯にはやはり悲哀、絶望、落胆の時期があったのだ。しかも、彼はこの苦悩にみちた闘ひによってよわまるどころか、闘ひを通じていよいよ自己を練磨したのであった。彼が友人に宛てた多くの手紙は、個人と社会の精神(モラル)的破産を宣告された十九世紀末にあって、一藝術家の魂の姿を物語ってゐる。人生の困難さと不安と失望と闘へる若き芸術家たちは、それらの手紙に勇気と精進の多くの教訓を見出だすであらう。そしてシャヴァンヌの苦悩と煩悶と厭世観(ペッシミスム)との記録は人を感動させると同時に、豊穣なものであり、健康なものである。人生に対してこのやうな態度をとったひとびと、反抗したひとびと、懐疑家や好事家が皮肉にも厭世家と呼ぶひとびと、これらのひとびとこそが、不撓不屈にその魂を高揚し、その心情を傾けて、幸福、歓喜、希望に到達するのである。彼らのみが、高き理想を英雄的に休みなく追求し、熱烈にまた豊かに労作することによって、人類を進歩させうるのである。

 『リュデュス・プロ・パトリア』の成功はシャヴァンヌに賞牌を齎し、批評家たちはこの大作を讃美し、国家及び市廳はかかる独創的な才能を用ふべきであると主張したにも拘らず、シャヴァンヌには何ら新しき制作命令が与へられなかった。このやうな成功のさなかにあって、彼は次のやうに書いてゐる。
 『私には世界がますます閉ぢられるばかりです。それには閑暇に対して闘ふやうに、闘ふ以外にはしかたがありません。そのために私は舊友ブノンの肖像を試みました。それは良心的な仕事で、私に与へられたかも知れない他の仕事を殆んど忘却させてくれました。とにかく、もうかなり永い画家生活をし、多少の仕事もし称賛を得たものが、なほどのやうな状態にあるかを、落胆せる性急な青年画家たちに示すだけとしても、私の生活は無意味ではなかったことになりませう。』
・・・・・
 『親しき友よ、今年も暮れますが、今年ほど私に孤独と静寂とがたいへん必要だといふことを感じさせた年はありません。鋭敏な君は私の精神状態をよく理解してくれるにちがいない。私のやうな苦しい人生は、死ぬまで休むことはできさうに思はれませんが、全く憂鬱になるやうにできてゐるのです。しかし、私は憂鬱が消え去るやうに祈ってゐます。』
 巴里市廳の最初の壁画を、彼は描き終へたばかりであった。しかし、この仕事に捧げられた三年間の重苦しい労作の後にも、彼は休息しようとするどころか、いよいよ想像力は豊かに燃え、新しい構想を描くべき新しい壁面を夢みるのであった。しかし、彼の希望に應(こた)えてくれるものとては何もなかった。彼の心は悲しみで一杯であった。『あなたにお知らせすべき変わったことは何もありません。あなたは私の生活をよく知ってゐる筈です。このまへお別れした時からただほんの少しの仕事をしたばかりです。そんなことが進歩だといへませうか。一つの作品を仕上げるたびに、また空虚さがすぐ訪れてきます。そこから抜け出したい。悲哀の外へ抜け出したい。私の芸術的遂行には何といふ沈滞が憑きまとってゐることでせう。何か、こんなひどい目に會わないで、何んとかほかにうまくゆくことはできないものかと思います。しかし、そんなことは黙ってゐる方がよいのです。あまりにそれは苦しいのです。』

 画家や詩人が彼らの芸術を群集の面前にかかげる時、ひとは彼らを羨むかもしれぬ。群衆は彼らに喝采を送るやうに見える。しかし、如何なる苦悩と悲哀によって、この勝利が獲られたか、如何なる幻滅と悔恨がそのあとに残るか。もしもひとがそれを知るならば、やがてひとは彼らを憐れむであらう。シャヴァンヌもこれらのすべてをつぶさに味ひなめたのであった。

 シャヴァンヌは彼の抱ける芸術理論と思想の故に多くの攻撃と憎悪を受けたが、そのために、彼は若い画家や臆病なひとびとに親切であった。また彼が本能的に共感を覚えていたのは、当時罵倒され、嘲笑されてゐた印象主義者や象徴主義者たちに対してであり、周囲の敵意と無関心の中に己が道を辛苦して切り開いてゆく革新者たちに対してであった。
 国家によって最初に開催された一八七二年のサロンに、彼は審査員を命ぜられた。時の美術局長シャルル・ブランは一席、審査員たちを招いてどしどし落選すること、厳選を旨とすることを表明した。シャヴァンヌはかって自分が一再ならず落選したことを想ひ、もっと寛大に扱ふやう主張するのが彼の義務であると考へた。しかし美術局長は自説を固執してまげなかったので、彼は即座に辞表を提出した。もはや彼は審査員でなかったので、彼の作品も前日の同僚の審査を受けねばならなかった。彼の二点のうちの一つ『少女と死』はみごとに落選したのであった。

 シャヴァンヌに教えと忠告を請ひに集まった青年達に対して、彼は父親の様な愛情と心盡しとを與へ、各々の個性や資質に深い理解を持って育んだ。弟子の一人に彼は次の様な手紙を書き送ってゐる。『私は多くの羊の群を導いてゐる。そして牧人として、私は良き指図をしなければならないし、又したいと思ふ。私は人の感情を強制したことは無かった。それは聖なるものであると考へたからである。然も私は制作を通じて方法や様式の嗜好を教へ込む事が出来た。』

 シャヴァンヌが技法を教へ、永年に亙って導き続けた画家たちは、皆、夫々の個性を持ち、極めて異なった仕事を追求し乍らも、皆独創的であった。こうした多くの青年画家たちがシャヴァンヌに心から慕って行った。その中にはルウアン図書館の壁画を描いたポール・ブーダン、プロヴァンスとコート・ダズュウルの風景画家となったモントナール等が居た。彼等こそシャヴァンヌの最も熱烈な賛美者であり、最も忠実な仲間であった。
 国民美術協会のサロンが閉会になった翌日──シャヴァンヌはこのサロンに巴里市廳に描いた一連の作品を出品した。──シャヴァンヌの金婚式を祝うと云ふ提案がなされたが、それはこれらの青年画家たちの意見に依るものであった。メッソニエの死後、これらの青年画家たちに推されて、彼はその美術協会長になった。

 シャヴァンヌは、すべての生命、勢力、豊穣さ等を愛したが、自らも妻の死によって大きな打撃を受ける日迄これらの美徳を持ち続けた。妻の死後、彼が生き残った日も極めて短かった。彼の面上には誇らかな明るさが漂ひ、人のよい、しかも精神的な優雅さが輝き、悲しみと幻滅の皺は見られなかった。彼の眼はすべての人を迎へて頬笑み、その大きな手は、男性的な友情を以って人々の手を握り、彼の声は明晰でしかも優しくふるへてゐた。彼は実に懐疑家でもなく、先入見や幻影に依って作られた伝説的な夢想家でもなかった。シャヴァンヌの型姿は、その性格と資質とに於いて極めて美しく、独創的にして、又偉大であった。
(この項おわり)

シャヴァンヌ・ノート
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