遂げず (4)

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(4)
 緑の雨を聞きながら、カシハは複製音楽家の奏する、セバスチン・バッハのAir for g. string に煙りの帯を感じた。その煙りの帯の中に感情のチンダル現象があつた。カシハの一時の石のやうな唯物論が、プロレタリア・イデオロギーが、涙で濡れて行つた。──カフェー・シャリオの空気は.煙草の煙りで疲勞してゐた。カシハは装飾硝子を凝視しながら、精神の放浪の、灰色の倦怠(アンユイ)に征服されてゐた。倦怠が私を倦怠にしない。さう断言した人間を西半球に感じた。
──バッハの空気に飽和されて、緑の雨の中を、帰る。雨に濡れた街燈の生活力。水素。青春。そして倦怠。
 カシハは帰る。雨の夜の郊外。暗闇。濡れた棕梠。カシハは玄関のドーアをノックする。
──マダム、マダム、僕です。
 マダムの絹擦れのかすかな音。スリッパの音。鍵手(ノブ)の廻轉する音。ペテーコートのマダム。
──カフエー遊びばかりしちや駄目よ。
 マダムは、眼のトルコ玉を半迴轉させながら言ふ。トルコ玉の異様な光度。ペテーコートの下のマダム。(ムッシューはマダムから29°の緯度を距離して椰子の果實を享楽してゐた。マダムは、ムッシューに毎週一束のジャーナルを発送する以外の役割を持たなかつた。マダムは.黒猫を愛撫しながら.高湿度の柑子と日光浴を共にした。ムッシューからは何の発音もない。マダムの隣室で、カシハは、日光を遮断し、タングステン光線を愛撫し、毛髪の成長率を計算しながら、骨灰色の螺旋筒を上下してゐた。カシハは日光浴を必要としなかつたらうか。)
──アンタ、太陽さんと絶縁することは、地球と絶縁することよ。
──でも、ぼく、暗い處が好きなんです。
──それはさうと、昨日は、何処で泊つたの? だめよ、悪い處で泊まつちや──
 カシハは、電燈の光線に光る、マダムの美しい犬歯を見る。犬歯が、飛ぶ。
──ぢや、おやすみ。
──おやすみなさい。
 ベッドの中で、カシハは空気と格闘する。トルコ玉、犬歯。眞珠。ペテーコート。が、カシハは、マダムを決して紫に印象しなかつた。そして、骨灰色の螺旋筒の中に、カシハは自らを見出す。螺旋筒。シャンツェ、7.50n.
(つづく)

(『東京派』四月號 1931年)
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