遂げず (2)

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(2)
 カシハは雪渓にきざまれたジグザツグのスキーの跡を振り返りざまに雪の上に横になる。雪のクッションは雪渓を登って来た運動に燃えてゐる身體に、スキーヂヤケツを透して心地よい冷熱器を兼ねる。ポケットから蜜柑を出して皮ぐるみにかぢりつく。汗ばんでゐる身體中に、口の中の蜜柑の針のやうな冷たさと酸が走る。そしてだんだんニコチンのにがさに似た蜜柑の皮のにがさが口の中に擴がつてゆく、顔の上を悪魔の微笑が走る……
 ──もう600秒後……
 カシハの身體の下を、スキーの下を雪渓はプラチナの平板のやうに走り下つてゐる。雪に蔽はれた岩。巨大な白象。松、白樺の白衣、太陽が雪の世界を銀光の世界にしてゐる。太陽の光線に反射する雪のまぶしさが、視覚の中に赤い縞を、渦を巻いてゐる赤い縞を感じさせる。──カシハの視覚の中で、瞳孔一杯に殺到して来る雪の純白な反射光線の中に、赤線が交錯する。ぐるぐる廻る。雪渓の面を光りのリグレーチユウインガムの高標(マーク)の小鬼達が無数に踊つてゐる。光りの粒子達、光りの小鬼達。デモクリタスの分子論を思ひながら、だんだんと雪渓の面に眼を、眼を、視線を、視線を見出す。無数の眼と視線……シカコの眼、(出帆前の甲板上の眼。)春野俊吉の眼。(友情から、微笑してくれる眼、同志約鞭たつを輿へる眼。)自殺した叔父の眼、(この眼の誘惑。)牧師の眼。弟の眼。父の眼。母の眼。(涙の陰で微笑してゐる母性の眼。)そして過去二十数年間の眼の視線の群……
 ──もう500秒後……
 再び悪魔の微笑が顔の上を走る。
 カシハは、スキーの締具を、しめかへる。厚い防水手袋の下で手が震へてゐる。杖を握つて、雪渓にスキーを直角に立つ。
 急に青藍色(ブルセリクユーム)が視覚に殺到した。
 白い世界(ル・モンド・ブラン)の上の空。あのハアキリユズ達のアーゴオ號が航海してゐる海。雪花石膏(アルバスター)の触手をもつたブルーセルリユーム。カシハはブルーセルリユームを脳髄に拡げながら十字形スタートを切つた。──死。滑降。雪の沼。凍死。

 白白白白白 白がカシハの前に殺到し、両側を走る。カシハはスキーの上の極度に不安定な重心感を感じながら、山岳地方の空気の抵抗に感覚的な白を感ずる程の速度の中にゐる。カシハの視覚を線と面になつて走る走る雪の白と共にカシハの過去二十数年間が白の線と面とになつて走る。
(つづく)

(『東京派』四月號 1931年)
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