遂げず (1)

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遂げず (1)
                   大島博光

 馬橇(トロイカ)は滑るのだらうか、走るのだらうか.それとも飛翔するのだらうか。
 カシハを載せた素朴な馬橇(トロイカ)は、雪の高原を滑る、走る、翔行する。スキー帽の隙間から冬季の山岳地方の空気がメスのやうに刺さる。カシハは都会の空気に昨日と淡い勝利感とを感じた。黄色い塵埃。人間と人間との磨擦。シカコは東京市外雑司ケ谷一四七七に天國を夢見てゐる。第七天國。シカコへの憎悪に近い恋愛に、カシハは咋日を感じた。カシハの足の下で、横たはつたスキーの締具が軌る。馬の雪を踏む音が、丸い煙の輪になって続く。高原。雪の高原には鐡道線が延びてゐるが、まだ一度も汽車は走つた事がない。またこの雪の高原を飛翔した一つの飛行機もない。と誰かが話した。誰だつたらう。何の必要でそんなことを話したのだらう。太陽の光線で高原は銀板である。糸杉の林が走つてゆく。カシハは地圖を買はせた。地圖にはバイカル湖があつたやうに記憶してゐるが、その他はただ、糸杉の林に似てゐると思つた地圖の等位線、山岳の陰影法。カシハはこの草原の彼方にカナンの都を感じてゐた。併し、カシハの概念の中のカナンの都は、雪の高原の中に点描された地圖の都邑記号に過ぎなかつた。遠い高原の彼方のカナンの都。都邑記号。糸杉の林と林の間に輝く雪膚。カシハはシカコの肉體を考へて居たのだ。シカコの肉體をまだ汽車は走らなかつた。飛行機も飛翔しなかつた。併し、シカコの顔を、枯れた青葉を憶ひ浮べた時、苦い青葉の汗だけがカシハの頭の中に残つた。
 馬橇(トロイカ)は滑るのだらうか、走るのだらうか.それても飛翔するのだらうか。
 低い山が、御者の肩越しに、白くぼやけた青灰色に見えた。その色彩と感触とがカシハに白骨を聯想させた。

 カシハは雪野を母と歩いてゐる。暗灰色に曇った雪曇りの低い空の下の雪野を。ふと、雪に折られた枯草の蔭に彼は白骨の一塊を見た。彼は母のショールにすがつた。母のショールは青灰色であつた。母は蜜柑を食ふことが出来なかつた。母は雪の日に死んで行つた。……雪の曠原を、長靴が、生物のやうに、大股に動いて行く……長靴が、足をもたない長靴が!歩く、雪の曠野を。カシハはロシヤの或る作家の見たという長靴が独りで歩く夢の恐怖を、胸の上にまで感ずる。(カシハの成長は雪から始まつた。)カシハはだんだん白いべールに包まれながら、べールを透かして、反射鏡の群を、雪膚を眺める。雪の反射光線の白の影の中に、クリーム・デ・マンテの匂ひを漂してゐるカフェー・シャリオの蜃気楼が浮ぶ。グロキシニアの花鉢。外光派の煙る風景畫。べ一トーべエンのムービングソナタ。紫の煙草の煙りの渦の中でカシハは友人春野俊吉と、雪或ひは氷山に於ける死體の保存状態を論じてゐる。その時、カシハは春野俊吉にステッキのやうな厭迫を感じてゐた。が春野俊吉よ、さよなら、永久に──僕は、自殺するならば、氷山へ行くだらう。氷山へ。凍結。ミイラ ──僕はスキーで自殺するだらう。
(つづく)

<『東京派』四月号(1931年)>
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