シャヴァンヌ 3 リヨン人気質 (下)
<マリー・カンタキュゼーヌ公爵夫人>
シャヴァンヌは、その幼年時代に、かくも幸福な母親の影響を受けたが、ついで画家としての生活に入って再び彼は一女性からゆたかな深い影響を受けた。丁度、ミケルアンジェロがヴィクトリヤ・コロナを愛した様に、シャヴァンヌはこの女性を情熱的に愛したのであった。彼は愛敬と感謝とを以って、彼女にその作品を献じてゐる。彼は自ら次の様に語ってゐる。《私は彼女にすべてを負ふてゐる。私が現に画家であるのも亦、私が描き得たものも皆、彼女に負ふてゐるのだ。》この女性こそ、マリー・カンタキュゼーヌ公爵夫人であった。シャヴァンヌは、一八五六年テオドォル・シャッセリオーのアトリエで彼女を識ったのであった。婦人は彼の優雅な精神と高貴な感性と芸術的信念によって彼に結びつけられた。夫人は相互的敬愛と信頼の上に築かれた友情のみが持つ献身と愛情とをシャヴァンヌに捧げた。優れた知性と高い教養と芸術に対する深い直感を持てる夫人は、やがてシャヴァンヌの思想と仕事の相談相手となった。ひとり夫人からのみ彼は議論すること無しに、忠告や批評や指示を受けとったのである。それ程彼は夫人の確実な判断、真摯な意見、洗練された鑑賞に絶対的な信頼を抱いてゐたのだ。一つの作品を描く準備の間、夫人は彼のアトリエの隅に坐りに来てゐた。そして、シャヴァンヌは、人物や群像の素描が出来上がると、その批評を彼女に乞ふた。彼女の答はシャヴァンヌの躊躇や不安や迷ひにとって決定的な終結となった。
社交界に於いてその優雅さと才気とに依って讃嘆された公爵夫人は藝術を愛する餘り、疲労をも厭はず色々のポーズをとる事を躊躇しなかった。職業的なモデルには不可能な身振りや仕草や襞の配置や、高貴さや魅惑など、シャヴァンヌの夢みるすべてを夫人は與へてくれたのであった。
パンテオンの作品は、シャヴァンヌの藝術的遺言ともなったが、彼は此の作品に於いて、眠れる巴里を見守る聖女ジュヌヴィエーヴのうちに公爵夫人を描いて夫人の想ひ出を不滅化しようと願ったのであった。虔やかな黒衣と白の長いヴェール、そしてヴェールのかげに見える甘美にしてしかも荘重な面輪、これらの高貴にして嚴そかな聖女ジュヌヴィエーヴの形姿は、シャヴァンヌにとって公爵夫人の化身であった。夫人こそは彼の長い苦闘の時、又、遅く訪れた光栄の喜びの日にあっても、常に変わらざる献身的な友であり、その言葉と微笑とまなざしとを以って彼に平和と勇気と希望とを齎らしたのであった。夫人は自ら発見し、讃嘆を捧げたシャヴァンヌに彼女のすべてを、即ちその心とたましひとを與へたのであった。彼女が死んだ時、シャヴァンヌも亦死ぬ以外の無い事を感じた。彼女がもはや存在しないからには彼も亦消え去る可きを覚えた。そして超人的な勇気と精力とに依ってパンテオンの第二作を完成したのち、彼も又ほほえみつつ夫人の墓の傍らに永遠の眠りについたのであった。二ヶ月前、夫人が死んだ時、彼はこの別離が身近いのを感じ、又お目にかかりませうと云ふ別れの言葉を告げたのであったが、そう云ふ胸も裂けむばかりの彼の苦悩の姿は、そのそばに居た人々の涙を誘はないではゐなかった。
リヨンの教育と夫人とはシャヴァンヌの強烈な天性に優雅さと品位のある態度と繊細な感性とを與へたのであった。同時に彼の独創的な精神、自然な陽気さ、洗練されたユーモアは彼との友情関係を愉しいものにすると同時に、確実なものにしてゐた。多くの人が彼の友人となることを誇りとし、又、そうなる事に於て幸福であった。
(この項おわり)
<シャヴァンヌ・ノート>
<マリー・カンタキュゼーヌ公爵夫人>
シャヴァンヌは、その幼年時代に、かくも幸福な母親の影響を受けたが、ついで画家としての生活に入って再び彼は一女性からゆたかな深い影響を受けた。丁度、ミケルアンジェロがヴィクトリヤ・コロナを愛した様に、シャヴァンヌはこの女性を情熱的に愛したのであった。彼は愛敬と感謝とを以って、彼女にその作品を献じてゐる。彼は自ら次の様に語ってゐる。《私は彼女にすべてを負ふてゐる。私が現に画家であるのも亦、私が描き得たものも皆、彼女に負ふてゐるのだ。》この女性こそ、マリー・カンタキュゼーヌ公爵夫人であった。シャヴァンヌは、一八五六年テオドォル・シャッセリオーのアトリエで彼女を識ったのであった。婦人は彼の優雅な精神と高貴な感性と芸術的信念によって彼に結びつけられた。夫人は相互的敬愛と信頼の上に築かれた友情のみが持つ献身と愛情とをシャヴァンヌに捧げた。優れた知性と高い教養と芸術に対する深い直感を持てる夫人は、やがてシャヴァンヌの思想と仕事の相談相手となった。ひとり夫人からのみ彼は議論すること無しに、忠告や批評や指示を受けとったのである。それ程彼は夫人の確実な判断、真摯な意見、洗練された鑑賞に絶対的な信頼を抱いてゐたのだ。一つの作品を描く準備の間、夫人は彼のアトリエの隅に坐りに来てゐた。そして、シャヴァンヌは、人物や群像の素描が出来上がると、その批評を彼女に乞ふた。彼女の答はシャヴァンヌの躊躇や不安や迷ひにとって決定的な終結となった。
社交界に於いてその優雅さと才気とに依って讃嘆された公爵夫人は藝術を愛する餘り、疲労をも厭はず色々のポーズをとる事を躊躇しなかった。職業的なモデルには不可能な身振りや仕草や襞の配置や、高貴さや魅惑など、シャヴァンヌの夢みるすべてを夫人は與へてくれたのであった。
パンテオンの作品は、シャヴァンヌの藝術的遺言ともなったが、彼は此の作品に於いて、眠れる巴里を見守る聖女ジュヌヴィエーヴのうちに公爵夫人を描いて夫人の想ひ出を不滅化しようと願ったのであった。虔やかな黒衣と白の長いヴェール、そしてヴェールのかげに見える甘美にしてしかも荘重な面輪、これらの高貴にして嚴そかな聖女ジュヌヴィエーヴの形姿は、シャヴァンヌにとって公爵夫人の化身であった。夫人こそは彼の長い苦闘の時、又、遅く訪れた光栄の喜びの日にあっても、常に変わらざる献身的な友であり、その言葉と微笑とまなざしとを以って彼に平和と勇気と希望とを齎らしたのであった。夫人は自ら発見し、讃嘆を捧げたシャヴァンヌに彼女のすべてを、即ちその心とたましひとを與へたのであった。彼女が死んだ時、シャヴァンヌも亦死ぬ以外の無い事を感じた。彼女がもはや存在しないからには彼も亦消え去る可きを覚えた。そして超人的な勇気と精力とに依ってパンテオンの第二作を完成したのち、彼も又ほほえみつつ夫人の墓の傍らに永遠の眠りについたのであった。二ヶ月前、夫人が死んだ時、彼はこの別離が身近いのを感じ、又お目にかかりませうと云ふ別れの言葉を告げたのであったが、そう云ふ胸も裂けむばかりの彼の苦悩の姿は、そのそばに居た人々の涙を誘はないではゐなかった。
リヨンの教育と夫人とはシャヴァンヌの強烈な天性に優雅さと品位のある態度と繊細な感性とを與へたのであった。同時に彼の独創的な精神、自然な陽気さ、洗練されたユーモアは彼との友情関係を愉しいものにすると同時に、確実なものにしてゐた。多くの人が彼の友人となることを誇りとし、又、そうなる事に於て幸福であった。
(この項おわり)
<シャヴァンヌ・ノート>
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