フランス紀行 2 『両替橋の不寝番』の詩人ロベール・デスノス(下)

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『両替橋の不寝番』の詩人ロベール・デスノス(下)

 一九二七年、アラゴン、エリュアール、ピエル・ユニクなどのシュルレアリストたちが共産党に入党したとき、デスノスはあらゆる束縛に反対するというアナーキスト的な自由の立場をとって、入党を拒み、シュルレアリスト・グループの外に立っていた。しかし、一九三三年から三四年にかけての、ドイツにおけるファシスムの台頭、ヒットラーによる政権奪取、フランスにおける左右対立の激化、といった情勢は、デスノスの態度を変えさせずにはおかなかった。
 彼もまたほかの仲間たちとともに、ファシスムの危険を訴え、反ファシスム闘争と平和をまもる運動に参加するようになる。彼はガストン・ベルジュリの「共同戦線」に加盟し、社共協力の反ファシスムのデモンストレーションに参加する。彼はまた一九三七年七月にひらかれた「革命的芸術家作家会議」にも協力する。
 レジスタンスの運動が始まると、抵抗しないことは結局ファシスムを甘受することだと考え、デスノスは「行動」という組織に加わると同時に、親独新聞「今日(こんにち)」紙によってジャーナリストとして活動する。この親独新聞というポストは、例えば逮捕をまぬかれるといった特典を保証するかに思われたが、そんな特典はなにひとつなかった。
 一九四四年二月二十二日、デスノスは友人のルネ・ラコートとおなじ日に逮捕された。ビラをくばっていて捕(つか)まった少年が、ナチに追及されて、デスノスの名まえと住所を吐いてしまったのだ。こうして両替橋(ポン・ト・シャンジュ)に近いマザリーヌ街一九番地のデスノスの家にゲシュタポが現われた・・・かれの伝記作者ピエル・ベルジェは書いている。
 「一九四四年二月二十二日、有力な地位にいる女友達からデスノスの処へ、まもなくゲシュタポが行く、という電話の知らせがあった。デスノスは、自分のかわりに妻のユキが逮捕されることを恐れて、逃げようとはしなかった。ゲシュタポがやってきたとき、かれはすっかり覚悟をきめ、微笑をうかべて待っていた。「みなさん、おはいりください。たいへん来るのが遅かったですね」・・・

 デスノスはフレーヌ刑務所にぶちこまれ、のちにコンピエーニュに移された。一九四四年四月二十七日、かれはほかの流刑囚たちといっしょに、錠をかけられた貨車のなかにすし詰めにされて、コンピエーニュからブッヘンヴァルトの収容所に送られた。終戦になって、かれは収容所から解放されたが、故国フランスの地をふむことはできなかった。チェコスロヴァキアのテレジンで、デスノスはチフスのために死んだ。
 チェコスロヴァキアにおけるフランス詩の紹介者であり訳者であるアドルフ・クルーパの伝えるところによると、チェコの一大学生が、テレジンにやってきた流刑囚名簿のなかにロべール・デスノスの名まえを見つけた。こうしてデスノスは詩人として見つけだされて、ひじょうによろこんだが、もう遅かった。翌朝かれは、大学生が握らせてくれた一輪の野ばらの花を手にしたまま、息をひきとった。「けさは生涯で、いちばん朝らしい朝です・・・」それがロベール・デスノスの最後の言葉だった。
 クルーパはまたデスノスの「最後の詩」について語っているが、デスノスの身から発見されたといわれる、紙きれに書かれた詩はつぎのようなものである。

 おれは あんまり おまえを夢みつづけ
 おまえにむかって 歩き 語りかけ
 あんまり おまえの影を愛したので
 おれにはもう おまえのほか何もない

 おれはもう 亡霊のなかの亡霊となり
 亡霊よりも 百倍も亡霊となり
 ひかりかがやく おまえの生のなかに
 おれはふたたび もどってゆくだろう
 
 この詩はじっさいはデスノスのものではなく、デスノスが紙きれに書きつけたノートをもとに、プラハで作られたもののようである。とはいえ、デスノスがいつも想いを馳せていた愛妻ユキヘの熱い思慕の情は、この詩に溢れている・・・
(この項おわり)

<草稿『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』>


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