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座談会 チリ連の17年をふり返って (8) 17 years of the Japan Committee in Solidarity with Chilean People

ここでは、「座談会 チリ連の17年をふり返って (8) 17 years of the Japan Committee in Solidarity with Chilean People」 に関する記事を紹介しています。
人民連合の解体で連帯運動のあり方が変化

山口 残念だったのは、クーデター直後に強制収容所にいれられていたチリ共産党書記長コルバランの釈放を要求して、赤旗まつりで「コルバランまんじゅう」を売るまでして運動したのだが、コルバランがモスクワに亡命したあとチリ共産党の方針が武装路線をとったことから人民連合が解体してしまったことです。
 それまではチリ人民連合、具体的にはその亡命機関であるローマの「民主チリ」という相手がある運動だった。しかし「民主チリ」が解体してからは情報が入らなくなって、高橋さんが独自にチリ情勢を分析、紹介し始めるまで直接情報源なしの運動となりました。
 八三年五月にチリ人民が決起してからは、片思いであっても私たちの連帯の思いをつなぐ相手が見えてきました。
 このように連帯運動のあり方は変化してきたのですが、一貫した特徴は、チリ人民と連帯するという一点で一致するさまざまな人が加わってきたことで、最初からの行事や行動に参加してくれた人、カンパをしてくれた人の名簿を作ったら尨大なものになるでしょう。
 政党として参加してくれたのは、日本共産党だけでしたが、政党支持をこえて、幅広い人たちがチリ連の運動に参加してくれました。そのあたりがチリ連が長く続いた理由だと思います。

立松 結局、社会党が協力したのは、アジェンデ夫人が来たとき、九段会館を一杯にしたことと、歓迎のためのカンパを十万円渡すから取りにこいと言われたこと。おじぎをしてもらってきたわ。
 わたしが考えるのは、東欧の激動などのなかで誰と手を結んで連帯運動をすすめていくかということ。今の段階で、その国で自主的な運動をすすめているのは誰なのかを探し出して連帯していくことにひとつの示唆を与えたのは、チリ連のとくに八〇年代以降の多彩な運動だった。映画「サンティアゴに雨が降る」を見れば、ほとんどの女性が感激するし、自覚を高めた人が多い。そういう文化的な運動だったわけ。
 アジェンデのころまではソ連の息がかかった運動があった。しかし今、国際民婦連自身がどうなるか分からないなかで、連帯する相手を探していくこと。そこには失敗もあるが、恐れていてはダメ。そういう点では大変勉強になりました。

(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
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