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座談会 チリ連の17年をふり返って (7) 17 years of the Japan Committee in Solidarity with Chilean People

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難しかった政党との関係

司会 チリ連の活動のなかでは、意義自体がかなり変ってきた面があるけど、そのあたりはいかがでしょうか。

高橋 七〇年代のチリ連のつき合いは、だいたい亡命者、しかもチリ共産党が相手という党派的な色彩が強かった。
 それが八〇年代以降もっと多様なかたちで結びつきができてきた。ダニエルとコロリンの来日が象徴的だった。あのときは、話をまとめるのに苦労したよ。日本側の運動の論理と、向う側の運動のダイナミックな性格とのあいだで不協和音が鳴った。
 ダニエルは左翼、レイナルド(コロリン)は中道のキリスト教民主党。中道と左翼は一面で仲が悪いが、いっしょに運動をやっていた。ところが日本では党派の問題が入ってくるとなかなかうまくいかない。
 チリでは政党が強く、政党にたいする帰属意識も高い。しかし同時にそれがかなりオープンで、この人はコムニスタ、彼はソシアリスタなどとみな知っている。もちろん政党面での対立はあるが、政党が違っていても個人的なレベルで結びつきが強い。人間的な結びつきがあるわけ。「ノー」の運動ではそれが高度に発揮された。ところが日本の場合には、すべて政党系列で縦割りになってしまう。これはいやだなあ。
 民政移管してもチリとの結びつきを深めていこうという人が僕の知っている人でも何人かいて、そういう人たちが外から見ると、チリ連は政党の色がついていて参加しずらいということになる。
 政党の色を越えたところで結びつきを作っていくスタイルがある程度できたが、それをさらにもう少し広げていきたかった。

山口 自分の青年時代はファシズムの時代で、スペイン戦争には大きな関心をもっていましたが、何もできませんでした。そのせいか反ファシズムのたたかいには共感があって、今日までチリ連帯への原動力となりました。だからクーデターのときの怒りも大きかった。
 その青年時代以来の連綿とした思いがあって、政党にたいする関係も割り切っている。その点で戦後生まれの高橋さんと、ギャップがある。私はもっと素朴なところ、あんな圧政許せるか、もう戰争は金輪際いやだというところで運動を始めていく。政党を見るときもそういう尺度がある。
 チリ連が設立されたときに、アジェンデ夫人の歓迎のときは一緒にやった社会党が入っていないわけを間島さんに尋ねたことがある。呼びかけたが来ない。勝間田氏のところに事務所をおく別のチリ連をつくったようだというんでやれやれと思ったことがある。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
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