文化を重視した運動
谷(圭) 間島さんの手法は、連帯集会でかならず歌とか写真とか文化をくっつけた内容でやった。文化の結合を非常に重視した。連帯月間のたびに演説会をやっていたのでは続かない。
立松(隆子) 年表を見ていると、他の運動と比べてたしかに文化的なものが多い。そしてチリの貨物船を阻止したり、コンサートをやったり、貿易使節団の来日に反対するとか多岐にわたっている。構成員が少ないわりにはネットが広いのね。
間島さんの思い出でいちばん印象に残っているのは、アジェンデ夫人を招いて九段会館を一杯にしたとき。社共でわりかしうまくいっていた時期だけど、いっしょにやるというので、どこで打ち合わせをするかについても、参議院のロビーなら対等で話ができると会場を決めるなど、社会党、総評にえらく神経を使っていた。日本の統一戦線運動のなかでも創意を発揮したときだったと思う。
集会が成功して終ったあと、興奮して彼女(アジェンデ夫人)はキューバ大使と飲みに行っちゃった。彼女はあれがいちばん感激したらしい。
谷 七五年十一月のアテネ国際会議には四〇カ国くらいの代表が集まった。ソ連派と祖国派と二派があって、両方から人を出して運営するなど複雑な舞台まわしだった。
間島さんと一緒にモスクワ経由で行ったが、そのときからソ連ペースだった。アテネの街を歩くと、日本の横浜タイヤだの、ビクター、セイコー、トヨペットだのの広告だらけで恥かしかった。会議で中心に動いたのは、チリ共産党のテイテルポイムだった。えらい人間が牛耳っている。これじゃうまくいかないなと思いながら帰ってきた。
大衆運動と政党とはスジが違うとうまくやっていけない。案外、大衆的にうまくやっていると思ったのは、フランス、イタリア、イギリスだった。ブラジルの人がやってきて、日本の資本がブラジルを痛めつけていることを訴えにやってきたのが印象的だった。日本と関連する重要な問題がいっぱいあると感じた。
司会 チリ連帯に関心をもったのは、ビクトル・ハラのカセットを大学一年のときに初めて開いて感銘を受けた時です。
学生のときは、「ベンセレモス」(われわれは勝利する)をよく歌いました。
八一年四、五月ごろ、外大のたまり場で、先輩が「ベンセレモス」をスペイン語で歌って聞かせてくれた。チリの文化との初めての出会いでした。
そのころ、高橋さんが「ピノチェトを通すな」というパンフを研究室で売っていた。そのころの「赤旗まつり」で、チリ連の店で高橋先生がチリ連帯のTシャツを売っていてびっくりした。さっそくそのTシャツを買って、いまでも持っています。それが直接チリ連を知るきっかけとなりました。
ひとつはチリの文化が優れていて質の高いものがあった。いま聞いてもとてもいいもので、それが新しい世代に関心を持たせるものとなりました。
チリ連の運動もパンフ、Tシャツなど文化的な要素を持ちながらすすめてきたことが、いろいろな人が加わってくるきっかけとなりました。チリ連の運動はチリの文化と結びついていたし、文化的だった。
立松 チリの男もたたかったが、チリの女性もすばらしい運動をやってきました。
最後のころ感激したのは、アルピジェーラ。働く婦人の中央集会で二時間で百枚売れた。どこに感激したのかというと、アンデスではいつもお日様があるわけ。いつも勝利する希望があるのでお日様がかいてあるのね。そう解釈するのね。
日本だって針を持つ人はたくさんいるけど、ああいうものでたたかいを知らせていく知恵ってたいしたものね。
(つづく)
*出席者
山口啓二(歴史研究者)
立松隆子(国際婦人運動家)
谷 圭(画家)
高橋正明(中南米研究家)
小松健一(フォトジャーナリスト)
司会 松野哲朗(チリ連常任委員)
記録 大島俊介(チリ連常任委員)
<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
谷(圭) 間島さんの手法は、連帯集会でかならず歌とか写真とか文化をくっつけた内容でやった。文化の結合を非常に重視した。連帯月間のたびに演説会をやっていたのでは続かない。
立松(隆子) 年表を見ていると、他の運動と比べてたしかに文化的なものが多い。そしてチリの貨物船を阻止したり、コンサートをやったり、貿易使節団の来日に反対するとか多岐にわたっている。構成員が少ないわりにはネットが広いのね。
間島さんの思い出でいちばん印象に残っているのは、アジェンデ夫人を招いて九段会館を一杯にしたとき。社共でわりかしうまくいっていた時期だけど、いっしょにやるというので、どこで打ち合わせをするかについても、参議院のロビーなら対等で話ができると会場を決めるなど、社会党、総評にえらく神経を使っていた。日本の統一戦線運動のなかでも創意を発揮したときだったと思う。
集会が成功して終ったあと、興奮して彼女(アジェンデ夫人)はキューバ大使と飲みに行っちゃった。彼女はあれがいちばん感激したらしい。
谷 七五年十一月のアテネ国際会議には四〇カ国くらいの代表が集まった。ソ連派と祖国派と二派があって、両方から人を出して運営するなど複雑な舞台まわしだった。
間島さんと一緒にモスクワ経由で行ったが、そのときからソ連ペースだった。アテネの街を歩くと、日本の横浜タイヤだの、ビクター、セイコー、トヨペットだのの広告だらけで恥かしかった。会議で中心に動いたのは、チリ共産党のテイテルポイムだった。えらい人間が牛耳っている。これじゃうまくいかないなと思いながら帰ってきた。
大衆運動と政党とはスジが違うとうまくやっていけない。案外、大衆的にうまくやっていると思ったのは、フランス、イタリア、イギリスだった。ブラジルの人がやってきて、日本の資本がブラジルを痛めつけていることを訴えにやってきたのが印象的だった。日本と関連する重要な問題がいっぱいあると感じた。
司会 チリ連帯に関心をもったのは、ビクトル・ハラのカセットを大学一年のときに初めて開いて感銘を受けた時です。
学生のときは、「ベンセレモス」(われわれは勝利する)をよく歌いました。
八一年四、五月ごろ、外大のたまり場で、先輩が「ベンセレモス」をスペイン語で歌って聞かせてくれた。チリの文化との初めての出会いでした。
そのころ、高橋さんが「ピノチェトを通すな」というパンフを研究室で売っていた。そのころの「赤旗まつり」で、チリ連の店で高橋先生がチリ連帯のTシャツを売っていてびっくりした。さっそくそのTシャツを買って、いまでも持っています。それが直接チリ連を知るきっかけとなりました。
ひとつはチリの文化が優れていて質の高いものがあった。いま聞いてもとてもいいもので、それが新しい世代に関心を持たせるものとなりました。
チリ連の運動もパンフ、Tシャツなど文化的な要素を持ちながらすすめてきたことが、いろいろな人が加わってくるきっかけとなりました。チリ連の運動はチリの文化と結びついていたし、文化的だった。
立松 チリの男もたたかったが、チリの女性もすばらしい運動をやってきました。
最後のころ感激したのは、アルピジェーラ。働く婦人の中央集会で二時間で百枚売れた。どこに感激したのかというと、アンデスではいつもお日様があるわけ。いつも勝利する希望があるのでお日様がかいてあるのね。そう解釈するのね。
日本だって針を持つ人はたくさんいるけど、ああいうものでたたかいを知らせていく知恵ってたいしたものね。
(つづく)
*出席者
山口啓二(歴史研究者)
立松隆子(国際婦人運動家)
谷 圭(画家)
高橋正明(中南米研究家)
小松健一(フォトジャーナリスト)
司会 松野哲朗(チリ連常任委員)
記録 大島俊介(チリ連常任委員)
<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って 1991年4月20日>
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