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座談会 チリ連の17年をふり返って (4) 17 years of the Japan Committee in Solidarity with Chilean People

ここでは、「座談会 チリ連の17年をふり返って (4) 17 years of the Japan Committee in Solidarity with Chilean People」 に関する記事を紹介しています。
チリ連帯運動は日本の民主主義運動の一環

山口 間島さんの主張点は、われわれの連動はチリ人民連帯の運動であると同時に日本の運動なのだということだった。チリの運動と直接イコールにはならないという点、これは一方で弱点をはらみながら、運動をつぶさないことにもつながった。
 多数者革命や反帝反独占という点でチリとはかなり一致するところはあるが、チリはすぐ社会主義革命をめざす、われわれは民主主義革命をのざす、という違いがあった。
 日本では民主的な条件を拡大する、それ以外では先が見えない。そこに固執した。だから一致点で連帯する、つまりチリの民主主義的な運動や要求と連帯するというのが、間島さんの考えであり、私たちの気持ちであってそれが運動を最後まで支えたのだと思います。情報が少なく、片思いであったにしても。
 九月のチリ・クーデターに怒ってたわたしは抗議集会にはいつも参加しました。そうするうちに江口朴郎さんから明日チリ連が発足するから来ないかと誘われ、出席したら幹事に選ばれました。次の年から常任委員となり、今日にいたっています。
 戦後、杉並に間島さん夫妻が指導する「火曜会」という地域の文化運動があり、わたしも参加していたのですが、それでチリ連結成総会で会った時、ああ君いたのかというので幹事にさせられたのです。
 われわれの若い時代は、天皇制と軍国主義のもとで、自由と民主主義を渇望していました。それが戦後実現した。戦後の運動は燃えるような民主主義の運動でした。いろいろな所でさまざまな運動が湧き出て、文化の香りの高い運動が花を咲かせました。
 それがアメリカ占領軍によって弾圧され大きな後退を強いられたのです。講和条約のあともういちどいろいろな運動を組み直していく過程で、文化運動は大きな役割を果たしてきました。間島さんが指揮をとったチリ連の運動は、そうした運動の伝統をふまえていたから、チリ人民の運動と共鳴しあえたのだと思います。それがチリ連の運動を十七年間持続させた理由です。
 どんなに一般の関心が薄らいだときでも、ピノチェト来日反対運動など、自主的な運動を組み立てることで、フィジーやフィリピンの人たちとも連帯することができたのだと思います。

(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って>
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