座談会 チリ連の17年をふり返って (3) 17 years of the Japan Committee in Solidarity with Chilean People

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チリのたたかいは日本のたたかいに示唆

小松 東欧・ネパールも見たが、ひとつの世紀末の今日、あれだけ強い独裁を紙と鉛筆の力でひっくり返したチリ人民のたたかいは、一九九〇年代の今後の民衆のたたかいにひとつの指針を与えたものと思う。
 クーデター以後、独裁の十六年のなかで、草の根の民衆が一人一人できることで立ち上がっていくチリのたたかいは貴重だ。学んでいくことが大事だ。アジェンデ政権ができたときに励まされ、その後のきびしいたたかいのなかで励まされ、いまも励まされている。あの本(『チリ・嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店)の出版はささやかな恩返しだ。
 今度は日本でチリの民衆がやったことをやる。それが真の連帯につながるのでは、と思っている。

司会 今まで共通して出てきた問題は、ピノチェトの弾圧がひどかったということ。そのなかで、八八年十月の国民投票の勝利が確信を持たせることになったということ。そのときの情報の収集を高橋さんがやって、その資料がとても役に立ったということなどです。
 皆が勝てないと思っていたチリ人民がどうして勝てたのか、そのあたりを今の状況にもふれて話して下さい。

高橋 年表を見ていると、思っていることと実際とのあいだにズレがありますね。僕は七八年頃にチリ連に引っぱり込まれたと思っていたけど、でもそれ以前から活動に加わっていたんだなあ。チリの建築家のミゲル・ラウネルの来日(七五年八月)のときには通訳をしたし。
 彼とは今も付き合っていますが、反軍政運動では大事な役割を果たした人だった。いまではすっかり白髪頭で、建築家組会の理事をしています。
 キラパジュンのとき(最初の来日)も通訳をやってますし、新庄さん(初代のチリ連専従)の指揮で封筒の宛名書きのバイトもやったな。
 でも本格的に始めたのは七八年頃です。横目でチリ連の活動を見ていて気になったのは、これは日本側の、きつい言い方をすれば独りよがりな、片思い的な運動だなということでした。チリの現状をあまり知らないでやっている。それでチリの状況を紹介する必要を強く感じた。
 ほかの国のことを理解するのは難しい。クーデターのイメージも違う。僕はクーデターの半年後、七四年三月に短期間ですがチリに行きました。
 ある晩、ピノチェト以下軍政の幹部連が建物から出てくる場面にぶつかった。そのとき、通りの人たちから自然発生的に拍手が起こって、これに強いショックを受けました。
 もちろん野次など飛ばせばすぐ引っぱられる状況だったから、このことを一般化するつもりはありません。現に僕自身、写真をとっていて捕まったこともありました。
 でも僕が目撃した光景は、メキシコで伝えられていた、圧倒的多数の国民を一握りの軍人が暴力で抑え込んだというイメージとは違っていた。クーデターが起きるにはそれなりの社会的な条件があったのだと思いましたね。そうしたことも伝えなければと思って始めました。
 ただチリ情勢についてはいつも読みまちがいをしていました。八三年五月からプロテスタ(抗議行動)と呼ばれる厳しい形での決起が起こった。毎月のように激しいたたかいが起きた。それでピノチェトの最後は近いなどと口走ったりしました。
 ああいう運動は分かりやすいですね。たたかうチリ人民というイメージにぴったりだから。でもそれが八六年にポシャる。八六年九月にピノチェトの暗殺計画が失敗して、直接行動型の反軍政運動が終る。
 それからしばらくは混迷状態に入ります。その時期に僕らはミゲル・リティンをよんだ。
(つづく)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号──座談会 チリ連の17年をふり返って>

嵐にざわめく民衆の

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