座談会 チリ連の17年をふり返って (2) 17 years of the Japan Committee in Solidarity with Chilean People

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アジェンデ夫人は日本の連帯に感謝

立松 マダム・アジェンデと娘のマリアさんを招いたときは、いろいろと大変だったけど、いまにして思えば、チリという皆があまり知らない国を知らせるいい機会だった。
 その後、アジェンデ夫人に何度も会う機会があり、その間に彼女はどんどん変貌していった。最後に会ったのは、八五年五月、彼女がナイロビでチリのことを訴えているのに出会ったとき、ブルジョア夫人が本当に大衆的な運動家に変っていたのにはびっくりした。
 会うたびに披女は言うんだけど、日本で運動が持続していのは誇らしいし、こんなに続いているのは日本だけで、感謝していると。
 正直なところ、一ペんひっり返ったものが、もう一度勝てるかどうか疑問をもっていた。
 途中から確信をとりもどしたのは、間島さんの発案で国労会館で日本の軍国化の問題とからめて集会をやったとき。やっぱり日本人がかかえている問題とチリの問題とは海をへだてていても密接なんだなと思いました。
 だからこそ、この間の勝利には感激しました。一番感激したのは、女たちが水をぶっかけられても「第九」を歌い、場所を変えてまた「第九」を歌う映像を見たとき。ああいう闘争は私たちはまだやっていないし、私たちはまだ余力があるなと思っています。

 はじめは文団連として間島さんといっしょにチリ連に出ていました。
 わたしは当時はチリを知らなかった。一九六九年から七〇年にキューバに行っていたとき、アジェンデの話を聞いて、チリに行きたいなと思ったが、結局行けなかった。そのときからチリに関心をもつようになりました。
 九段会館のアジェンデ夫人歓迎の集会のとき、舞台のうしろに何か書いてくれと言われ、でっかい画板を買ってきてつないで、大塚のガン研の大きな講堂を借りて、ぼくと飯野(紀雄)君とで描いてもっていった。
 それから何となく文団連のひとは出てこなくなったが,間島さんが何かと電話をかけてくるから、だんだんとチリ連と関係が深くなった。チリ人民支援の画展「ベンセレモス展」をやろうじゃないかと四、五人集めて、五、六回やった。小さな画集も出した。いっしょにやった絵かきもついてこれなくなった。たいして情報もないので、チリの問題を考えていくことができないわけね。あんた何してんの、絵を描いているより新聞読む方が中心みたいだね、なんて言われながらやってきた。まだ若かったんだね。

世界のチリ連帯運動

 最後の方では「ノー」の勝利のときには、本当に勝つのか分からなかったという感じは確かにありましたよ。ピノチエ卜独裁がきつかったんだよね。それで勝つときはテンポが早いという感じがしましたよ。
 長い運動のなかでいちばん印象に残っているのは、ピノチェ卜が外遊して、南太平洋のフィジーでストライキをやって追い返したという事件があったでしょ。あれにぼくはどえらいショックを受けたね。あのときはね。これはチリ人民は勝つなという感じがした。
 ピノチェトがタラップを降りてくる。ストライキで誰もいなくて役人がタラップをつないでやっと降りてくる。卵をぶつけられる。ホテルでもストライキ。勝手にやれってんで、飲み物も食物もなく帰った。あれはね、どうしてフィジーが、と思った。日本より情報が発達していない小さな国だよね。ああ日本は遅れてんな、人民の団結ってすごいものなんだなと感じた。
 最後のほうは、十何年になってどこでピリオドをうてるのか確信を持てなかったが「ノー」の運動でやっと持てました。
 チリの映画監督リティンが来たときもそうだった。たまたま息子がスペインに住んでいて、ミゲルが近所だったので、連絡して来てもらうことになったんだが、『戒厳令下チリ潜入記』に書かれていたチリの状況が変るには、まだまだずいぶん時間がかかるなと思っていました。それが、ふっと変ったのは「ノー」の勝利からだな。
 それからひどくこの運動で役に立ったのは、マスコミ情報の少ないなかで高橋さんが詳細に紹介してくれたチリ情勢だった。分からないことがパッと分かる。楽しみだった。
 アテネの国際会議(一九七五年十一月)に行ったとき、往復ともにローマの「民主チリ」に寄りました。なかなか訪ねられないところを、コネをえてやっと訪ねました。イタリアの大きな労組のビルの迷路のようなところを通って、奥の一部屋を「民主チリ」が借りていた。
 イタリアではずいぶん丁寧に亡命者を扱っていた。仕事につけてやったりね。責任者は若い人で、話を聞いているうちにこの人たちは大変だなと思った。世界中の労働者が連帯を強めている。若い人が中心となって働いている。これはうまくするといけるかなとあの時分から思った。

小松 一九七〇年当時の青年学生運動、六〇年安保や七〇年の変革のたたかいで、当時はひとつの高揚期だった。
 セイロン(スリランカ)で民主連合政府が成立し、チリで社会主義政権が選挙で成立し、その当時の青年学生のなかでは、つぎは日本だというイメージが強かった。美濃部革新都政をはじめ、社共が統一した革新自治体がたくさんできていたし、日本でも民主連合政府が実現できるのでは、という期待が強かった。
 当時、新聞記者で伊豆に取材に行っていたとき、お昼のニュースでクーデターでモネダ宮が燃えているのを見た。あのときの、チリの人民連合政権はわずか三年でひっくり返ったという印象が強く残っている。
 アジェンデ夫人が来日したときも取材した。チリのフォルクローレ・グループ「キラパジュン」が来日したとき、彼らの前で「隅田川」と「もみじ」を歌った記憶がある。「インティ・イジマニ」とも新宿にすき焼きを食べに行った。外相に申し入れに行ったときも同席した(日本政府がピノチェトを国賓として招待を決めた一九八〇年前後、チリ連代表は園田外相、大来外相、伊東外相に会い、ピノチェト招待中止を直接申し入れた)。節目、節目でチリ連と関わってきたという思いがある。いつかチリに行ってみたい気持があった。
 それがたまたまこのあいだ、ベルリンの壁が崩れる前後のドイツとか東欧の民衆の生活を見る機会があって、そのとき、チリがどうなるのだろうか、チリ連の活動をやってきた一人として、ジャーナリストとして見ておきたい気持ちが強くなった。
 高橋さんが一緒に行こうと言ってくれたのでこんどの仕事ができた。一人だけでは上っつらを見て終った気がする。
(つづく)

 *出席者
  山口啓二(歴史研究者)
  立松隆子(国際婦人運動家)
  谷 圭(画家)
  高橋正明(中南米研究家)
  小松健一(フォトジャーナリスト)
  司会 松野哲朗(チリ連常任委員)
  記録 大島俊介(チリ連常任委員)

<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>
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