チリ人民連帯日本委員会の解散にあたって

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 チリ人民連帯日本委員会の解散にあたって

 一九八九年十二月のチリ大統領選挙で、反軍政・民主主義回復をめざす諸党派の一致して推すエイルウィンが勝利し、九〇年三月十一日に大統領に就任して軍政に終止符が打たれた。以来一年、チリ人民連帯日本委員会(チリ連)は、情勢の推移を見守ってきたが、チリ連結成の目的が基本的に達成されたことを確認し、来る四月末日をもって解散する。

 チリ連は、一九七三年九月のチリ軍事クーデターによる人民連合政府の転覆と流血の弾圧、民主主義の破壊に抗議し、チリ人民支援を訴えてきた団体と個人によって、七四年二月十九日に結成された。以来十六年余、チリ連はチリ情勢と日本国民の当面する課題とを結びつけ、チリ人民に連帯して運動してきた。

 結成当初の、アジェンデ夫人の招待を中心とする運動の高揚にひきつづき、ローマの「民主チリ」(人民連合亡命組織)と連絡をとりつつ国際会議や国際統一行動に参加し、来日する亡命チリ人との交流を進めたが、「民主チリ」との連絡がとだえた七九年からは、独自に情勢分析を行なって、ピノチェト来日反対を貫いた。

 八三年五月、チリ人民が公然と反軍政行動に立ち上がると、これに呼応して連帯運動を強め、『戒厳令下チリ潜入記』(岩波新書)などによる関心の高まりのなかで、潜入を果たした映画監督ミゲル・リティンの招待を成功させた。

 八八年の国民投票に向けた「ピノチェト・ノー」の運動、八九年の大統領選挙勝利をめざすチリ人民のたたかいの際には、たたかいの中で歌う民衆歌手二人を招待し、さらに九〇年三月の民政回復のあとには、勝利の喜びを歌うアンヘル・パラの日本公演を成功させた。十七年におよぶこうしたチリ連の運動は次のような意義と特徴を持っていたといえるだろう。

 第一に、チリ人民の軍政打倒・民主主義回復の成果は、何よりもチリ人民の、歴史に根ざした民主主義の力と不屈のたたかいによってかちとられたものであるが、国際的なチリ人民連帯運動がチリ人民を鼓舞し、軍事政権を孤立化させた役割も大きい。その一端を担い続けたチリ連の寄与も小さくはなかったと自負できる。

 第二に、チリ連の運動が、一貫して日本における自主的な運動として、日本国民自身の自由と民主主義の課題と結びつけてとりくまれ、それだからこそ、国際連帯の力を発揮できた。

 第三に、毎年パブロ・ネルーダ生誕記念集会を催すほか、文学、映画、演劇、美術、写真、音楽など多様な文化活動と連帯運動との結合がはかられ、運動を根付かせることができた。

 解散にあたり、これまでチリ連を担ってきた団体・個人と、運動に参加し支えてくれた全国多数の人びとが、民主的な国づくりに苦闘を続けているチリ人民にこれからも連帯の心を寄せ続けることを期待する。

 一九九一年三月十一日 チリ民政移管一周年記念日に
                      チリ人民連帯日本委員会

<『チリ人民連帯ニュース』第39号(最終号)1991年4月20日>
          
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