千曲川・赤坂橋にもサケがきていた!Salmon had come to Akasaka Bridge of the Chikuma River!

ここでは、「千曲川・赤坂橋にもサケがきていた!Salmon had come to Akasaka Bridge of the Chikuma River!」 に関する記事を紹介しています。
”灰になった わたしのひとつまみを/わがふるさとの 赤坂橋の上から/千曲川の流れに まき散らしてくれ/海へくだった鮭が さいごには/生まれた故郷の川へもどってゆくように” と博光が詩に書いたサケが実際に赤坂橋まで遡上し、産卵していたことを知りました。

長野市民新聞に長期連載中の『信州のサケ文化』(宮下健司:元県立歴史館総合情報課長・信濃史学会員:執筆)121「昭和初期における漁法」によれば、<昭和10年ころ、赤坂橋(東福寺)の近くにはサケのスレ穴(産卵床、直径2㍍、深さ0・5㍍)があり、サケがひっくり返る(メスが横向きになって尾びれで小砂利をとばす)まで網を打ってはいけないといっていた。また、晩秋のこの辺りの河原では「スレダオレ」と呼んだ産卵を終え死んだサケが拾えたという。>(長野市民新聞2013年12月7日)

当時、長野盆地ではサケ漁が盛んに行われていたそうで、<最盛期は10月中旬から12月中旬であり、漁場は犀川と千曲川とが合流する落合橋周辺の牛島付近と犀川をさかのぼった川合や丹波島、千曲川をさかのぼった関崎橋上流辺りが中心であった。・・・この時期が秋の収穫期と重なっていたために、農家ではサケが収穫祝いの祝い魚となり、「筋子の豆腐汁、あんなうめえものなかった」と語り継がれている。>(同)

昭和10年は博光が25歳、早稲田大学仏文科を卒業し「蝋人形」の編集にあたった時期になります。博光が実際に千曲川でみた鮭を思い浮かべて詩にうたった、と考えるといっそう生き生きと情景が感じられます。

 友よ わたしが死んだら
                         大島博光
友よ 友よ わたしが死んだら
灰になった わたしのひとつまみを
わがふるさとの 赤坂橋の上から
千曲川の流れに まき散らしてくれ

海へくだった鮭が さいごには
生まれた故郷の川へもどってゆくように
わたしも育った川に 帰ってゆき
そこに いつまでも漂っていたい

子供の頃に浮かべた 笹舟のように
そこに漂って いつまでも見ていたい
微笑んでくれた 岸べの菫を

そこに漂って 思い出していたい
岸べで 菜を洗っていたおふくろを
わたしを生きさせてくれた人たちを
 
  (一九五六年一月 信濃毎日新聞)


信州のサケ
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