コリウール─アントニオ・マチャードの墓(中) Collioure - Machado's grave

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 翌朝早く、八百屋で、百日草のような菊の花束を買って、墓地へ向かった。ひとかかえもある鈴かけの大木のある、だんだら坂の道を少しばかり登ってゆくと、もうそこに墓地があった。海は見えなかったが、やはり海辺の墓地にはちがいなかった。門をはいると、そのとっつきのところに、マチャードの墓は、幾鉢もの鉢植えの菊の花ばなに飾られて、ずんぐりとした西洋杉の木かげにあった。大きな寝棺大の石を横たえたような平墓石には、

  スペイン詩人 アントニオ・マチャード
  一八七五年七月二十六日 セヴィリヤに生まれ
  一九三九年十一月二十二日 コリウールに没す

と刻まれてあった。くしくも、わたしたちが訪れたその日も十一月二十二日 で、ちょうど命日にあたっていた。墓石のうえには、人民戦線の旗と思われる、赤・黄・紫の旗が蔽いかけてあって、追悼と賛辞(オマージュ)を書いた紙きれが三・四枚、小さな石で押さえて供えられていた。多くはスペイン語で書いてあって、雨風にさらされてインキの色もにじんだりして色褪せていた……そこに来あせた七十歳近い老婆が、墓を指さしながら、また身ぶり手ぶりをまじえて話してくれたところによると、この土の下に死んだマチャードが葬られたとき、かれのからだは引き裂かれ(デシレ)ていたとのことだ。四十年むかしには、この老婆もまだ娘の頃で、マチャードの死はひとびとの話題ともなったのにちがいない。──一九三六年から一九三九年にいたるスペイン内乱には、彼は人民の側に立って民主主義のためにたたかった。ロルカが銃殺されたときには、いち早く『虐殺はグラナダで行われた』を書いて、ファシストどもの犯罪をあばいた。その後彼はフランコ軍の追撃をのがれてピレネーを越え、ここコリウールに辿りついたが、コリウールの広場でこの世に別れを告げた。それはスペイン人民とおのれの信念に忠実な模範的な死であり、すべてのひとびとが敬愛をささげる死であった。その日、コリウールの広場では、鈴懸けの樹木の枝も折れんばかりに、大風が吹き荒れていたという……

 アラゴンは『詩人たち』のなかに書いている。

  マチャードは コリウールに眠る
  スペインを出て 三歩も行かぬうち
  空は かれにとって 暗く重くなった
  かれは この田舎に 坐りこみ
  永遠に その眼を 閉じた
                (つづく)

(『詩と詩人たちのふるさと──わがヨーロッパ紀行』)

 ▷コリウール─アントニオ・マチャードの墓(下)

マチャードの墓
Machado's grave in Collioure

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