パリの解放と平和の探求 3. 屍体置場

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 3. 屍体置場

  一九四五年になると、アウシュヴィッツをはじめとする死の収容所から、生き残った人びとがフランスに帰ってくる。フランスじゅうが、死の収容所におけるナチスの冷酷無残な虐殺を知って深い衝撃をうける。ピカソはこの言語に絶する悲劇を大作「屍体置場」(二〇〇☓二五〇センチ)を描く。詩人ギュヴィックはその頃のことをつぎのように語っている。
 「『屍体置場』という詩をどうして書いたかって? 一九四五年五月のある日、(死の収容所で)じっさいにどんなことが起きていたのか、それがわかったからだ。わかり始めたからだ。国外の収容所に連れさられた人たちが帰ってきて、屍体置場の写真が眼に入るようになったからだ。
 その頃、わたしはよくエリュアールといっしょにピカソをアトリエに訪ねて行った。ピカソは多少世俗的なアメリカ人たちの訪問にわずらわされずにいた。その日の昼、わたしたちは三人きりで話しこんだ。その朝、国外に連れさられた人たちの列車の着くのを見にピカソは行ったのだった。……その夜、家へ帰るとわたしは一気に『屍体置場』を書いた。ピカソもー枚の絵を、白い背景の大作を描いて、『屍体置場』と名づけた。」(ギュヴィック「詩を生きる」)
 こうして、いわば状況の絵画として、ピカソは「屍体置場」を描いた。部屋のなかに皆殺しになった家族が描かれている。テーブルの上には酒壷やシチュー鍋が描かれていて、食事時だったことを物語っている。男は「ゲルニカ」の死んだ戦士に似ているが、縛られた両手を空につき上げている。裸の女も「ゲルニカ」の女たちの姉妹であって、戦争による傷痕とゆがみが描かれている。赤ん坊は母親の胸から流れおちる血を手で受けとめている……。バールはつぎのように書いている。「『ゲルニカ』は運命のイメージである。その象徴はバスクの小さな町の運命を越えて、ロッテルダムとロンドン、ハリコフとベルリン、ミラノとナガサキを──われらの暗黒時代を予言していた。『屍体置場』には象徴はない。おそらく予言もない。その形象は事実である。──それはビュヘンワルド、グッハウ、ベルセンなど、強制収容所の痩せ細った蠟のような死体である。『ゲルニカ』の断末魔の苦しみを耐えうるものにしている胸を裂くような激昂と暴力は、ここでは沈黙と化している。男、女、子供にとって、この絵は苦しみのない『ピエタ像』であり、悲しみのない埋葬であり、葬式のない鎮魂曲(レクイエム)である……」
 一九四五年三月、ピカソはシモーヌ・テリのインタビューにこう答えている。
 「あなたは芸術家とはどういうものだと思いますか。画家なら眼しかもっていない馬鹿者であり、音楽家なら耳しかもたず、詩人ならあらゆる心境を奏でる竪琴しかもたず、またボクサーならただ筋肉しかもたない、そんな馬鹿者だと思いますか。まったく反対です。芸術家は同時に政治的な存在であって、世界の悲痛な出来事や、激烈な、あるいは楽しい出来事にいつも心をくばり、それらのイメージへの対応に馴れているものです。他の人びとに無関心でいることが、どうしてできるでしょう。他の人びとがもたらしてくれる人生から遊離するなどということが、どんな象牙の塔的なのんきさによってできるのでしょう? いや、絵画はアパルトマンを飾るために作られるのではありません。それは敵にたいして攻撃し、防衛する武器なのです。」(「レットル・フランセーズ」一九四五年三月二十四日付)

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屍体置場

「屍体置場」

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