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パリの解放と平和の探求 2. ピカソの入党──泉へ行くように

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 2. ピカソの入党──泉へ行くように

 一九四四年十月にひらかれるサロン・ドートンヌ委員会は、同展に、ピカソが戦争中に制作した絵画・彫刻の主要作品を陳列できるよう、一室を提供する。ピカソはそれまでサロン・ドートンヌに出品したことは一度もなかった。解放後、フランスの革新を期待していた人びとにとっては、どうしてもピカソの出品が必要だったのである。「首都の解放を支援したパリの芸術家たちが、レジスタンスの精神をもっとも力づよく象徴した画家に敬意をあらわそうと考えるのは当然である」(ルイ・パロー「レットル・フランセーズ」十月七日)
 出品する作品を選択している最中、ピカソは共産党への入党を決意する。それは一時の思いつきでもなければ、向う見ずなことでもなかった。その時、ピカソはもう六十三歳であった。またピカソの入党が親友エリュアールの圧力によるものだと見ることは、まったくばかげている。当時、フランス共産党は苛酷なレジスタンスの闘争によって鍛えられた党であり、銃殺された者たちの党であった。ひとりピカソだけが入党したわけではなかった。その党の隊列には、アラゴン、エリュアール、トリスタン・ツァラ、偉大な物理学者ポール・ランジュヴァンやフレデリック・ジョリオ・キュリ、心理学者アンリ・ワロン、画家フェルナン・レジェなどが加わっていた。ピカソ入党のニュースは十月五日の「ユマニテ」紙上に大きく発表された。それは、サロン・ドートンヌの開幕の二日前であった。
 会場には、「奏楽」「グラジオラスのある椅子」「アルティショを持つ女」などの大作を中心にして、近作の「静物」、ドラ・マールとマリ・テレーズの多くの肖像画、数点の「坐った女」など、絵画七四点、彫刻五点がならべられた。ピカソがサロン・ドートンヌに出品したのはこれが初めてであったが、それは異例であると同時に象徴的な大事件であった。パリの市民たちは、占領下でりっぱな態度を堅持した人間ピカソにたいして敬意をおくると同時に、それまでその作品がひどい非難の的であった画家ピカソに讃美をおくろうとした。ピカソはいまや人びとを結びつける統一と自由の象徴となった。絵画展がこれほど多くの観衆を集めたことはかつてなかった。
 しかし、ピカソが共産党へ入党したというニュースはたちまち大きなスキャンダルとなる。「サロン」の保守的な観衆にはまったく理解できない。ピカソの名声にひきつけられてやってきた観衆は、理解できない作品に顔をしかめてひんしゅくをおぼえる。反動の一味は時がきたとばかりに、フランス芸術の名においてこの「外国人」告発する。軽はずみな若者から伝統主義者の紳士までが、「ピカソの絵をとりはずせ」と叫んで、画廊を歩きまわる。それにたいして、若い画家たちと学生たちがピカソの絵の前に立ちはだかって、これを防衛する。この反動にたいする抗議文は、エリュアール、アラゴンからサルトルまで、さらにモーリヤック、ヴァレリーまでが署名する。
 ところで、政治参加を手だてとして自己宣伝をするということほど、ピカソの精神に無縁なものはない。しかしかれはアメリカの友人たちのために誤解をとかねばならぬと考える。ちょうどアメリカの「ニュウ・マッセズ」が求めてきたインタビューの機会をとらえて、かれは共産党入党の弁を語ることにした。この一文は十月二十四日アメリカで発表され、ついで十月二十九日「ユマニテ」紙上に発表された。それはつぎのようなものであった。

 「わたしの共産党への入党は、わたしの全生涯、わたしの全作品の当然の帰結である。なぜなら、わたしは誇りをもって言うのだが、わたしは絵画をたんなる楽しみの芸術、気晴らしの芸術と考えたことは一度もなかったからであり、わたしはデッサンによって、色彩によって──それがわたしの武器だったから──世界と人間への認識のなかに常により深く入りこみたかったからである。この認識が日ごとに、より一層われわれを解放してくれるように、わたしが最も真実で、最も正しく、最もよいと考えたものを、わたしはわたしの流儀で表現しようと思った。それは、偉大な芸術家たちが、よく知っているように、当然つねにもっとも美しいものだった。そうだ、わたしは真の革命家としていつもわたしの絵画のために闘ってきたことを知っている。しかし、わたしはいま、それだけでは充分でないことを理解した。この怖るべき圧制の数年は、自分の芸術をもって闘うだけでなく、わたし自身の全部をあげて闘わねばならぬことを教えた……そこでわたしは、ためらうことなく共産党へ行った。というのは、わたしは心の中ではずっと前から党とともにいたからである。アラゴン、エリュアール、カッスー、フージュロンなど、すべてのわが友人はそのことをよく知っている。わたしが公式に入党しなかったのは、それはある種の『無邪気さ』によるものであった。わたしは、わたしの作品、わたしの心による入党で充分であり、しかもそれがもうわたしの『党』だと信じていたからである。もっとも世界をよく知ろうとし、世界を建設しようとし、こんにちと明日の人びとをいっそう自覚させ、いっそう自由にし、いっそう幸福にしようと努めているのは党ではなかろうか。フランスにおいても、ソヴィエトにおいても、わがスペインにおいても、もっとも勇敢だったのは共産党員ではなかろうか。どうしてためらうことがあろう?参加するのが怖ろしかったのか?いや、わたしは反対に、かつてなく、いっそう自由に、いっそう申し分なく感じている……それに、わたしはひとつの祖国をみつけるのにひどく急いでいたのだ。わたしは、ずっと亡命者だったが、いまやわたしはもう亡命者ではない。スペインが、わたしを迎え入れてくれる日を待ちながら、フランス共産党が腕をひらいてわたしを迎え入れてくれたのである。わたしのもっとも尊敬する人たち、偉大な学者たち、偉大な詩人たちを、わたしは党のなかに見いだした。そしてあのパリ解放の八月の日々にわたしの見た、蜂起したパリ市民たちの美しい顔を、わたしは党のなかに見いだした。わたしはふたたび、わが兄弟たちに仲間入りしたのだ。」
 ピカソはここにおのれの心をひらき、党のなかに求めたものをすべて述べている。
 またこの頃、「なぜわたしは共産党員になったか」というパンフレットがつくられた。ピカソはそれにこう答えている。
 「泉へ行くように、わたしは共産党へ行った。」
 それ以来、彼はこの泉の水に溶けこんだ。「そしてこんどは人びとが、生と力、確信と想像を飲むために、ピカソのところへ行った」(マルスナック)

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