ランボオの何を追憶するか   没後100周年によせて

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 ランボオの何を追憶するか
    没後100周年によせて           大島博光

 フランスの天才詩人アルチュール・ランボオが、一八九一年十一月十日、マルセイユの施寮病院で梅毒性関節炎のために三十七歳の生涯をとじてから、ことしは百年になる。フランスのいくつかの雑誌は「ランボオ」特集を組んで、この詩人を追憶している。なにしろ、その無類に美しい詩、『酔いどれ船』、「ダイヤモンドの散文詩」『地獄の季節』(ヴェルレーヌ)などの作品とともに、たちまち詩筆を折って、エチオピアの砂漠にまでいたる、放浪をつづけた波瀾の生涯など、ランボオの愛読者、愛好者はいまもあとをたたず、いまなお多くの研究書が刊行されている。しかも、詩人の詩や思想や行動についての解釈や評価は、批評家の数と同じほどにも多様である。クローデルのように、ランボオをカトリックと見なすものもいれば、町の貧民街が生んだ浮浪児──捨て育ちに育った野性の浮浪児のひとりとみなすものもいる。また、めまい・眩暈(げんうん)を定着した幻視の詩人の側面を強調する批評家もいる。
 そこで、われわれはいったいランボオの何を追憶し、何を模範とするのか、という問題が出てくる。
 わたしは、受けつがれるべきは、この詩人の積極的な側面であり、この詩人が叫んだ真の声である、と考える。それを見きわめるためには、この詩人を彼の生きた時代と空間のなかに据(す)えて見なければならない。
    ◇
 ランボオが詩を書いたわずか五年ほどのさなかに、パリ・コミューヌの革命が起きた。そのとき彼は十七歳の若者というよりは少年であった。しかし彼はすでに「感覚」「わが放浪」などのすばらしい詩を書いていた詩人であり、家庭への反抗を社会への反抗に向けていた早熟な少年であった。こうして彼はパリ・コミューヌに自分の夢を託し、パリ・コミューヌが勝利した一八七一年三月十八月、「コミューヌ宣言」の知らせに、彼は歓喜して叫んだ。
 「やったぞ! 保守が敗けたんだ」(ドゥラエの証言)
 コミューヌが敗北すると、ランボオは「パリのどんちゃん騒ぎ」を書いて、コミューヌを圧殺したブルジョワどもを痛烈に罵倒(ばとう)する。この詩は虐殺されたコミューヌ戦士の叫びそのものである。
 コミューヌ敗北後の一八七三年、彼は有名な『地獄の季節』を書く。こ傑作の背景、風景は、「おれは見た、炎の海と空を蔽う煙りを。左に右に、あらゆる財宝が無数の雷のように燃えあがり……」「火と泥だらけの空をした巨大な都市」である。詩人ジョルジュ・ソリアの指摘するように、『地獄の季節』は、コミューヌがランボオに残した痕跡なしには、あのような高みには到達できなかっただろう。
 ランボオはコミューヌをわがものとして支持し、たたかうコミュナールの姿を「ジャンヌ・マリィの手」のなかに書いた。そしてコミューヌが敗北すると、絶望した彼はいさぎよく詩筆を折ってしまう。
    ◇
 ランボオから、これらコミューヌにかかわるものすべてを捨てさるようなランボオ解釈には、反抗を抜きにした「野性の状態における神秘家」(クローデル)が残るだけであろう。そしてランボオの沈黙、逃亡を模範とするような人たちがそれにつづくだろう。
 コミューヌを圧殺した社会的条件はランボオをその沈黙、逃亡へと追いこんだのである。詩を捨てた詩人はアフリカの砂漠へ逃げた。アラゴンは大戦さなかの一九四一年に書く。「ランボオからゴーギャンへと七十年来、われらの儚(はかな)い夢想を支配してきた逃げの精神……」と。
 そしてアラゴン、エリュアールたち、一九二〇年の若者たちは、ランボオの「逃げの精神」ではなく、反抗をうけついで、これを延長したのだった。
 (おおしま・はっこう 詩人)

ランボオの何を

<1991.7.14 赤旗日曜版>
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