第二次世界大戦中のピカソ (2)

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 (「奏楽」とパリの悲劇)

 さて、ナチの占領下で、ピカソはあのスペイン戦争の初めにぶつかった問題にふたたび出会い、これを徐々に解決してゆくことになる。それは芸術を破壊して、「芸術の死」をおし進めるような体制にたいして、どのようにして芸術を生き永らえさせるか、という問題である。ナチにとって現代芸術は「退廃芸術」とみなされ、非難の対象でしかなかった。このようなナチの支配下で、芸術創造をつづけることは可能なのか。ファシスムにふみにじられた人民と、その人民を支援し、ファシスムとたたかう絵画とのかかわりあいという問題について、ピカソは「ゲルニカ」以来もう馴れていた。
 ピカソは、この問題についてつぎのような解決をみいだしていたのである。
 「わたしは戦争を描かなかった。というのは、わたしは写真家のように題材(テーマ)を探しもとめてゆく画家のたぐいではないからだ。しかしあの頃わたしの描いた絵のなかに、戦争が存在することは疑いない。恐らく後年、わたしの絵が戦争の影響で変ったことを、歴史家が明らかにするだろう。だがわたしじしんには分らないのだ。」(一九四四年九月三日付「サンフランシスコ・クロニクル」)
 つまりピカソは、自分の絵画がそれ自身の道をたどるにまかせたのである。
 一九四一年には、愛人ドラ・マールの裸の半身像が小娘のように感動的に描かれている。そのほか、帽子をかむった女、椅子に腰かけた女などが描かれ、八月にはエリュアールの妻ニューシュが描かれる。それは占領下でも沈黙したくないというピカソの意志をしめしていた。
 一九四一年の秋から、ピカソは二人の女を向きあわせたデッサンを多く描き、最後には坐った女と寝そべった女との対照へと到達する。この主題は、翌年の一九四二年四月というきわめて悲劇的な時期に、大作「奏楽」(五月四日)のなかに描かれる。たちまち有名になるこの大作は、占領下におけるピカソ絵画の重要な作品とみなされる。一九五×二六五という大きさや、一九四七年に国立近代美術館のためにピカソがこの絵を選んだという事実がそれを証明している。
 この絵画が描かれた春は、ちょうどパリでレジスタンスの活動家や人質たちが、大量に銃殺され、ナチス・ドイツ軍のロシヤ進攻が成功したときである。「奏楽」はこのパリの悲劇と無縁ではないように見える。荒い縞のベッドに横たわっている裸の女を、幾何学的図形で描かれた、マンドリンを弾く女が見守っている。横たわった女はもう死んでいるようにも見える。「死休置場でのささやかな奏楽なのか」とフェルミジエも問うている。

奏楽

奏 楽

(つづく)
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