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第二次世界大戦中のピカソ (1)

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第二次世界大戦中のピカソ (1)

大戦が始まる

 スペイン戦争につづいて一九三九年九月には第二次世界大戦が始まる。そのときピカソは五十八歳で、ますます有名になり、「ゲルニカ」のおかげで、反ファシスト闘争の象徴ともなっていた。
 ナチス・ドイツ軍による占領下で、「ゲルニカ」の画家は生きてゆくことになる。ダラン・ゾーギュスタン街のアトリエを引越すことは不可能であった。むろん、ピカソはパリにとどまっていたわけではない。一九三九年の九月から一九四〇年の八月まで、大西洋岸の海水浴場ロワイヤン滞在をくりかえしている。その頃、何軒もの絵具屋に行って、あるだけの絵具を買いあさっていたといわれる。多くのひとびとがフランスを離れ、国外に亡命した。ピカソも、メキシコやアメリカに来るようにと招かれたが、マチスとおなじく彼は動かない。一九四〇年四月、ついにロワイヤンにもドイツ機甲部隊が進駐するのを見て、数ヶ月後、ピカソはパリにもどり、占領下のパリに、ダラン・ゾーギュスタン街のアトリエに、四年間とどまることになる。
 ピカソは、グレートハウンド種の愛犬カズベックを連れて、シテ島先端の辻公園の河岸を散歩し、ダラン・ゾーギュスタン街十六番地のレストラン「シェ・レ・カタラン」で恋人ドラ・マールや友人たちと夕食を共にした。詩人レオン=ポール・フォルグは書いている。
 「われわれは戦争下で息をひそめていた。……わたしはピカソの話に耳を傾け、それから料理皿に手をつけた。ピカソは煙草入れからブラジル煙草をとり出すように、ときどき逆説をみんなに披露した……」
 フランスの敗北後、自由地帯のヴィシー政府の周辺では、ピカソや現代芸術の支持者たちを退廃といって攻撃し、フランスの敗北の責任を彼らに転嫁した。ドイツ軍は反対に誘惑の手をひろげるが、ピカソはその手にはのらない。ペンローズの語るように、食糧や石炭を特別に配給しようというナチの甘言にたいして、「スペイン人はけっして寒がらないものです」と答えるだけであった。そのために部屋を暖めるのに一日シャベル一杯のコークスしかなかった。また、ピカソには展覧会をひらくことが禁じられていた。そこで披は、エリュアールやアラゴンと同じように、出版によって自分の作品を発表するという機会をとらえるほかなかった。ペンローズの語るつぎのエピソードは有名なものである。ナチの一将校がピカソを訪ねてきて、テーブルの上に一枚の「ゲルニカ」の写真を見つけて尋ねる。──「これをつくったのはあなたですか?」──「いいえ、それをつくったのはあなたがたです」とピカソは答えたという。ピカソはまたドイツ人の訪問客に「ゲルニカ」の写真を渡して言った。「どうぞお持ち下さい。思い出(スーヴニール)に! お土産(スーヴニール)に!」
(つづく)
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