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『ピカソ』あとがき postscript of "Picasso"

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あとがき

 一九三〇年代、わたしの若かった頃、すでにピカソは有名で、わたしたち詩人仲間のあいだでも、ピカソはもう関心と讃嘆の対象となっていた。わたしがとりわけピカソを知るようになったのは、やはりエリュアールの詩「ゲルニカ」をとおしてであった。
 一九三八年、フランスの美術雑誌『カイエ・ダール』(3−10号)がわたしの手もとにとどいた。それは「ピカソのデッサン」特集号で、なかでも、「叫びを挙げる雄鶏」の図が印象的だった。「ゲルニカ」が描かれて一年後で、「叫びを挙げる雄鶏」が、ファシスト・フランコ軍によって血の海の中に投げこまれたスペイン人民のイメージであることは容易に理解された。またこの号には、クリスチャン・ゼルボスが「ピカソの魔術的絵画」というエッセイを書き、エリュアールが「パブロ・ピカソヘ」という詩を書いていた。わたしはその両方を翻訳して、当時出ていた『アトリエ』という美術雑誌に載せた。その後、戦争が激しくなるにつれて、もうピカソどころではなくなったのであった……
 戦後わたしには、アラゴンやネルーダの紹介の方が忙しくて、ピカソにはなかなか頭も手もまわらなかった。
 一九七八年十一月、マドリードで「チリ支援世界大会」がひらかれた。わたしはその大会に出席したが、そこにアジェンデ未亡人とともに、ピカソ未亡人ジャックリーヌ夫人も参加しているのには感激した。そのとき、「ゲルニカ」はまだプラド美術館にはなかった……帰途、バルセロナに寄って、モンカダ街のピカソ美術館を訪れた。そこは、少年時代、青年時代のピカソのデッサン、絵画の宝庫であった。わたしはピカソの源泉にふれる深い感動に浸った。
 こうしてまたわたしのピカソへのアプローチが徐々に始まった。とりわけピカソがフランス共産党に入党した頃の事情を調べてみたいという想いが強くなった。それというのも、日本の名だたる出版社から出ている、『ピカソ全集』などの解説に、たとえば、あの世界平和擁護大会のポスターに使われたピカソの鳩について、その鳩はアラゴンがピカソのところから盗んできたもので、ピカソは共産党に利用されたにすぎない、というような子供だましの反共デマゴギーを始め、だらだらとした形而上学的なおしゃべりや「長談義」(アラゴン)によるピカソの歪曲、解毒がはびこっていたからである。そういうわたしを助け、勇気づけてくれたのは、アルベルティの『途切れざる光』やフェルミジェの評伝であった。むろんアラゴンやエリュアールの詩とエッセイもそれに加えねばならない。一九五一年のリュマニテ社発行の『ピカソ・デッサン集』や、一九七〇年四・五月号の『ウーロップ』誌(ピカソ特集号)、も役立った。それらは何れも、ピカソの革命的モダニスム、革命的レアリスムへ光をあてるものであった。そうしてスペインの詩人アルベルティがピカソに贈った詩ほど、ピカソの人間と芸術のもつ、生きた深い意味を教えてくれるものはない。
 「泉へ行くように、わたしは共産党へ行った」とピカソは言った。そうしてこんどは、人びとが泉へ行くようにピカソのところへ行って、生きる悦び、怒り、愛、真実、自由を飲むのだ……

   一九八六年六月
                             著 者

新日本新書『ピカソ』


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