ジャック・ゴーシュロンをフランスに訪ねて
Visitez Gaucheron en France
尾池和子 Kazuko Oike
二〇〇八年六月、夏のフランスに詩人ジャック・ゴーシュロン氏をお訪ねする機会を得ました。
パリ、サン・ラザール駅から電車で小一時間、窓の外がすっかり田園風景になったころコルメイユ・パリジーという小さな駅がありました。友人とともに降り立つと、電車を降りて来るひとびとのなかに日本からの客人を見逃すまい、まだかまだかと待っているゴーシュロン夫人の姿がありました。実は電車を乗り間違えて、約束の時間より一時間ほど遅れてしまったのです。お互いに連絡がつかず、迎えに来てくださったゴーシュロン氏を一度自宅まで送り届け、再度駅で待っていてくださったのです。白髪を短く切りそろえ、すらりとした若々しい夫人に遅れた事情を話し、ともかく会えてよかったと車でご自宅へ向かいました。
セーヌ川に沿って開けた郊外には一軒家が建ち並び、その庭のそこここにバラの花が咲く中を縫って、辿り着いた家は道から少し階段を降りたところにあり、玄関ではゴーシュロン氏が出迎えに立っておられました。「とうとう来ました」と言うとゴーシュロン氏も、時間に遅れたということもあり「やっと来たね」というように迎えてくださいました。灰色と黒の抽象画のような模様のシャツを着た氏は痩せ形で、広い額、白髪で、ゆっくりとした動作で家の中へ招き入れてくださいました。
中へ入ると、蒸し暑い日だったため夫人は「まずお風呂に入る?」と聞いてくださり、その気さくな態度に緊張していた気持ちがスッとほどけるようでした。さすがにお風呂はご遠慮しましたが、では早速アペリティフにと居間で改めてお互いを紹介、持参した博光氏の最晩年の写真、日本からのおみやげと、「広島・長崎原爆写真集」をお渡ししました。写真集のページを繰られた氏は一言「ほんとうに、ひどい」と。
居間に飾ってある絵や彫刻を拝見したあと、「さぁ、食事は中でする?それとも庭で?」「もちろん庭で!」と即答するほど晴れた午後の庭は、そろそろ終わりに近づいた大輪の赤いバラの花々、青りんごの木を初めとする緑に囲まれ、こじんまりと気持ちが良さそうでした。
パラソルの下で、前菜、鴨、ポテト、チーズ四種と昼食がすすみ、デザートは日本のお盆に載ったプチ・フールと、さくらんぼ、黒すぐり、木苺などの果物を大皿に盛り、「さぁ、たくさんおとりなさい」。取り分けた果物にはエアゾール式生クリームをかけていただきます。ひげ剃りクリームのようにシュっと出てくるもので「主人はこれが嫌いなの」と笑いながらさらにクリームを出して果物にかける夫人の様子は、若い娘さんのようで、耳の遠いゴーシュロン氏に終始耳のすぐそばで話しかけ、わかりやすく言い換え、それにうなずく氏の姿に仲の良さがこちらにも伝わって来るようでした。氏は昨年大きな病気をされたと言われましたが、カメラを向けると眼差しには力がこもり、人生を抵抗詩に捧げた詩人としての誇りが感じられました。
大島博光記念館開館へ寄せるメッセージに話が及ぶと、氏は「わたしは実際にその場にいなくても、常に共にある」と気持ちを込めて話されました。さらに「博光は怒りのひとだったと思う。わたしもそうだ。しかし怒りの背後にはいつも寛容と許し、そして愛がある」「記念館を永続させるためには、詩の朗読会やいろいろな集いを折にふれ行うことが大切だと思う」と強調されていました。
食後のコーヒーのあと、ご夫妻は家の中を案内してくださいました。氏の彫像や若いころを描いた絵など彫刻や絵画が部屋のあちこちにしっくりと収まり、三階の書斎に昇ると、その窓の外には思わず声をあげるほどの風景が広がっていました。ゆったりと流れるセーヌ川をはさんで溢れるような緑、大木が風に葉をまかせるように揺らぎ、青空がどこまでも広がります。かつて氏が教鞭をとられていたというサンジェルマン・アン・レイの街も遙か遠くに見えます。「季節によって太陽が沈む場所がちがうのよ、ここに来て初めて知ったわ」と快活に話される夫人。
このパノラマを見渡せるように置いてある書き物机の上には、博光氏の記念館のパンフレットがあり、表紙の写真をゴーシュロン氏は「とても美しい」と気に入っていらっしゃいました。また書架からポール・エリュアールの詩集を出され「これはエリュアールのサインだよ」とそのページを見せてくださり、書斎の入り口の鴨居の上に飾ってある作品を「これはエリュアールの詩『自由』をフェルナン・レジェが描いたんだよ」と示されます。博光氏が生前にこの家を訪問することができたら、きっと多くを語らずとも同じ道を歩んだ詩人として心通う時間が流れたと思います。
ゴーシュロン氏が食事のときに言われた言葉「幸福は人生の詩だ」、その言葉とおり詩のようなひとときでした。お別れの際「またお会いしましょう」の言葉に、氏は何もおっしゃることはありませんでした。それはお耳が遠くて聞き取られなかったせいでしょうか、それとも八十八歳というお年を考えられてのことだったのでしょうか、どちらなのか、わたしにはわかりません。いつかお目にかかれる日が再び来ることを願って、ゴーシュロン氏が大好きな街だと言われたパリへと、コルメイユ・パリジーの素朴な駅をあとにしました。
@<ゴーシュロンの人となり>
Visitez Gaucheron en France
尾池和子 Kazuko Oike
二〇〇八年六月、夏のフランスに詩人ジャック・ゴーシュロン氏をお訪ねする機会を得ました。
パリ、サン・ラザール駅から電車で小一時間、窓の外がすっかり田園風景になったころコルメイユ・パリジーという小さな駅がありました。友人とともに降り立つと、電車を降りて来るひとびとのなかに日本からの客人を見逃すまい、まだかまだかと待っているゴーシュロン夫人の姿がありました。実は電車を乗り間違えて、約束の時間より一時間ほど遅れてしまったのです。お互いに連絡がつかず、迎えに来てくださったゴーシュロン氏を一度自宅まで送り届け、再度駅で待っていてくださったのです。白髪を短く切りそろえ、すらりとした若々しい夫人に遅れた事情を話し、ともかく会えてよかったと車でご自宅へ向かいました。
セーヌ川に沿って開けた郊外には一軒家が建ち並び、その庭のそこここにバラの花が咲く中を縫って、辿り着いた家は道から少し階段を降りたところにあり、玄関ではゴーシュロン氏が出迎えに立っておられました。「とうとう来ました」と言うとゴーシュロン氏も、時間に遅れたということもあり「やっと来たね」というように迎えてくださいました。灰色と黒の抽象画のような模様のシャツを着た氏は痩せ形で、広い額、白髪で、ゆっくりとした動作で家の中へ招き入れてくださいました。
中へ入ると、蒸し暑い日だったため夫人は「まずお風呂に入る?」と聞いてくださり、その気さくな態度に緊張していた気持ちがスッとほどけるようでした。さすがにお風呂はご遠慮しましたが、では早速アペリティフにと居間で改めてお互いを紹介、持参した博光氏の最晩年の写真、日本からのおみやげと、「広島・長崎原爆写真集」をお渡ししました。写真集のページを繰られた氏は一言「ほんとうに、ひどい」と。
居間に飾ってある絵や彫刻を拝見したあと、「さぁ、食事は中でする?それとも庭で?」「もちろん庭で!」と即答するほど晴れた午後の庭は、そろそろ終わりに近づいた大輪の赤いバラの花々、青りんごの木を初めとする緑に囲まれ、こじんまりと気持ちが良さそうでした。
パラソルの下で、前菜、鴨、ポテト、チーズ四種と昼食がすすみ、デザートは日本のお盆に載ったプチ・フールと、さくらんぼ、黒すぐり、木苺などの果物を大皿に盛り、「さぁ、たくさんおとりなさい」。取り分けた果物にはエアゾール式生クリームをかけていただきます。ひげ剃りクリームのようにシュっと出てくるもので「主人はこれが嫌いなの」と笑いながらさらにクリームを出して果物にかける夫人の様子は、若い娘さんのようで、耳の遠いゴーシュロン氏に終始耳のすぐそばで話しかけ、わかりやすく言い換え、それにうなずく氏の姿に仲の良さがこちらにも伝わって来るようでした。氏は昨年大きな病気をされたと言われましたが、カメラを向けると眼差しには力がこもり、人生を抵抗詩に捧げた詩人としての誇りが感じられました。
大島博光記念館開館へ寄せるメッセージに話が及ぶと、氏は「わたしは実際にその場にいなくても、常に共にある」と気持ちを込めて話されました。さらに「博光は怒りのひとだったと思う。わたしもそうだ。しかし怒りの背後にはいつも寛容と許し、そして愛がある」「記念館を永続させるためには、詩の朗読会やいろいろな集いを折にふれ行うことが大切だと思う」と強調されていました。
食後のコーヒーのあと、ご夫妻は家の中を案内してくださいました。氏の彫像や若いころを描いた絵など彫刻や絵画が部屋のあちこちにしっくりと収まり、三階の書斎に昇ると、その窓の外には思わず声をあげるほどの風景が広がっていました。ゆったりと流れるセーヌ川をはさんで溢れるような緑、大木が風に葉をまかせるように揺らぎ、青空がどこまでも広がります。かつて氏が教鞭をとられていたというサンジェルマン・アン・レイの街も遙か遠くに見えます。「季節によって太陽が沈む場所がちがうのよ、ここに来て初めて知ったわ」と快活に話される夫人。
このパノラマを見渡せるように置いてある書き物机の上には、博光氏の記念館のパンフレットがあり、表紙の写真をゴーシュロン氏は「とても美しい」と気に入っていらっしゃいました。また書架からポール・エリュアールの詩集を出され「これはエリュアールのサインだよ」とそのページを見せてくださり、書斎の入り口の鴨居の上に飾ってある作品を「これはエリュアールの詩『自由』をフェルナン・レジェが描いたんだよ」と示されます。博光氏が生前にこの家を訪問することができたら、きっと多くを語らずとも同じ道を歩んだ詩人として心通う時間が流れたと思います。
ゴーシュロン氏が食事のときに言われた言葉「幸福は人生の詩だ」、その言葉とおり詩のようなひとときでした。お別れの際「またお会いしましょう」の言葉に、氏は何もおっしゃることはありませんでした。それはお耳が遠くて聞き取られなかったせいでしょうか、それとも八十八歳というお年を考えられてのことだったのでしょうか、どちらなのか、わたしにはわかりません。いつかお目にかかれる日が再び来ることを願って、ゴーシュロン氏が大好きな街だと言われたパリへと、コルメイユ・パリジーの素朴な駅をあとにしました。
@<ゴーシュロンの人となり>
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