チリ人民の希望と悲劇の歌い手──ネルーダ Neruda, Singer of hope and tragedy of Chilean people

ここでは、「チリ人民の希望と悲劇の歌い手──ネルーダ Neruda, Singer of hope and tragedy of Chilean people」 に関する記事を紹介しています。
 チリ人民の希望と悲劇の歌い手 Singer of hope and tragedy of Chilean people

 昨年(一九七三年)一〇月一六日、「チリ軍事革命以後」という特派員報告が、NHK・TVで放映された。民主的な選挙によって選ばれ、合法的に成立したチリ人民連合政権にたいして、アメリカ帝国主義に支援された軍部反動勢力が、九月十一日、クーデターというファッショ的暴挙を行ってから、二○日ばかりあとの、サンティアゴ市街のルポルタージュであった。
 アジェンデが人民の委託を死守して、最後まで英雄的にたたかった大統領官邸モネダ宮の壁や鉄柵のうえには、なまなましい弾痕が、文字どおり蜂の巣のような黒い穴となって残っていた。
 路上の装甲車にバズーカ砲がすえつけられ、そのバズーカ砲の威嚇のもとに、家宅捜索が行なわれ、押収された本が、三階、四階の高みから投げ捨てられ、ひらひらと舞った。路上では、これも山のように積まれた本が、──市民たちの心の糧であり、かれらをみちびく光明でもあった書籍類が、ロボットのような兵隊たちによって焼かれていた。本の表紙のレーニンの肖像もめらめらと燃えていた。
 芝生の緑もあざやかな国立サッカー場の金網のなかのスタンドには、試合に熱狂する観客ではなく、まるで家畜の群のように、たくさんの人たちが、カービン銃に監視されて、とじこめられていた。拷問でうけたなまなましい背中の傷あとを、肌ぬぎになって、外国の記者たちに見せて、訴えている若者もいた。そしてスタンドの下の留置室にも多くの人たちがとじこめられ、ひそかに処刑が行なわれているということを、ナレーターはつげていた。
 それから、このカメラ・ルポルタージュは思いもかけぬ情景を写し出した。──九月二五日のパブロ・ネルーダの葬式の場面であった。赤と白と青のチリ国旗に包まれたネルーダの柩が運び出されて、霊柩車に移された。霊柩車の屋根は白いカーネーションの花束でおおわれていた。そのあとに、マチルデ夫人らしい人の、悲しみをこえた、きびしい、沈痛な表情をした、彫りの深い顔が見えた。葬儀は、林立するカービン銃の包囲のなかで行なわれたにもかかわらず、ネルーダを敬愛するたくさんの労働者市民の長い列によって飾られたのである。

 その後、べネゼエラのカラカスに亡命した、ネルーダ未亡人マチルデ・ウルーティア夫人は、夫の最後の数日について、べネゼエラの「エル・ナシオナル」紙のインタビュアーにこう語っている。
 「クーデターがおきて、アジェンデ大統領が倒される日まで、かれは調子がよく、元気でした。……病床にこそついていましたが、かれの病気は少しばかり回復していたのです。しかし、クーデターの日は、かれにはとてもたえがたいものでした。
 わたしたちがサルバドル(アジェンデ大統領)の死を知ったとき、医師はただちにわたしを呼んで申しました。『パブロには何も知らせてはいけませんよ。病状が悪くなるかも知れませんから』。
 パブロはベッドの前にテレビをすえていました。運転手に新聞を買いにやらせました。そのうえ、あらゆる放送が聞けるラジオも持っていたのです。わたしたちはメンドサ(アルゼンチン)放送で、アジェンデの死を知ったのですが、このニュースがかれを死に追いやったのです。そうです、それがかれを殺したのです。」
 マチルデ夫人は、アジェンデの死んだ翌日のことを、つぎのように語っている。
「パブロは目をさますと、熱発していました。けれども、手当をすることができなかったのです。主治医は逮捕されてしまい、助手の医師は、危険をおかしてイスラ・ネグラまで来てくれようとはしなかったからです。」
 「こうしてわたしたちは、医師の手当をうけずに、孤立していました。数日がすぎて、パブロの容態は悪化したのです。わたしは医師を呼んで申しました。『かれを病院に入れなければなりません。とても悪いのです』。
 かれは一日じゅうラジオにかじりついて、べネゼエラ放送、アルゼンチン放送、モスクワ放送などを聞いていました。とうとう、わたしたちは何もかも真相を知ったのです。パブロの意識は、はっきりしていました。眠りこむまでは、頭も冴えていたのです。
 五日めに、かれをサンティアゴの病院に入院させるために、わたしは病人用の寝台車を呼びました。車は途中で、検問にひっかかってとり調べられましたが、それはひどくかれにこたえたのです。」
 ──乱暴でも行なわれたのですか──
「そうです。たいへん乱暴なもので、かれにはとてもこたえたのです。わたしはかれのわきに坐っていました。かれらは、わたしを車から引きずり降ろして、とり調べ、それから寝台車を調べました。それはなんとも、かれにはたえがたいものでした。
 わたしはかれらにいいました。『これはパブロ・ネルーダです。重態なのです。どうか通してください』。まったくおそろしいことでした。かれは危篤状態になって病院に着いたのです。パブロ・ネルーダは、二二時三〇分になくなったのです。だれも病院に来ることはできませんでした。夜間外出禁止令が出ていたからです。それからわたしは、サンティアゴの家にかれを移させました。家はこわされ、本もなくなり、何もありませんでしたが、そこでお通夜をしたのです。サンティアゴで過ごすことのできた最後の時だったのに、たくさんの人たちが来てくれました。
 葬列が、墓地のあるサン・クリストバルの丘にさしかかった時、四方八方から人びとが集まって来ました。みんな働く人たちで、真剣な、きびしい顔をしていました。一団の人びとが『パブロ・ネルーダ!』と叫ぶと、残りの半分の人びとが『プレセンテ(ここにいるぞ!』と答えました。それはまるで自殺行為だったのですが、さいわいに、何ごともおきませんでした。このたくさんの人びとは、軍部の弾圧にもかかわらず、『インターナショナル』を歌いながら、墓地に入ったのです。)
 あたかも死んだネルーダが歌いだしたかのように、参列者の中から期せずして湧きあがった、この『インターナショナル』の歌ごえは、ファシスト軍事政権に反対する最初の大きなデモンストレーションとなったのである。
 (なお、ネルーダの死因は公式には癌ということになっている。しかし、このたび(一九七四年三月)来日されたアジェンデ婦人は、インタビューの折に、わたしにこう語った。──偉大な詩人パブロ・ネルーダは胸の痛みで死んだのです。かれは、肉体の面と構神の面と、二重に殺されたのです。病気の手当てや薬もあたえられず、そのうえかれの詩集は焼かれたのです。……」)

 ネルーダはその生涯で、二つのファシズムに出会った。そしてそのことは、かれを今世紀の偉大な典型的詩人のひとりに育てあげたのである。
 一九三六年、かれは領事として駐在していたマドリードで、ヒットラーとムッソリーニに支援されたフランコのファシズムに出会った。スペインの民主主義を圧殺するファシストの暴虐をまのあたりにみて、かれは最初のヒューマニズムの叫びをあげ、共産主義者としての一歩をふみだした。
 そして一九七三年、アメリカ帝国主義にあやつられたチリ軍部ファシストの暴虐とたたかいながら、かれは死んだ。死の直前の九月一五日に、かれはクーデターに抗議し、つぎのような詩を書いて、ファシストどもに痛撃をくわえた。

  腹黒い奴ら

ニクソンと フレイ(*l)と ピノチェト(*2)ども
ポルダベリ(*3)と ガラスタソ(*4)と パンセル(*5)ども
今日 この一九七三年九月のなんという酷(むご)たらしさ
おお 貪欲なハイエナども
多くの血と火でかちとった旗をかじりとるネズミども
大農場でたらふく満腹している奴ら
極悪な略奪者ども
干回も身を売った腹黒い奴ら
ニューヨークの狼どもにけしかけられた裏切者ども
わが人民の汗と涙を絞りとり
わが人民の血で汚れた機械ども
アメリカのパンと空気を売りこむ売春屋ども
淫売宿のボスども ペテン師ども
人民を拷問にかけむちうち飢えさせる法律しかもたぬ死刑執行人ども!
               (一九七三・九・一五)
 *1 フレイ=元チリ大統領、 2 ピノチェトー=チリ軍事評議会議長、 3 ポルダベリ=ウルグアイの独裁者、 4 ガラスタソ=ブラジルの独裁者、 5 バンセル=ボリビアの独裁者

 人民の委託を死守して、機関銃を手にしてたおれたアジェンデのように、ネルーダもまた最後まで、詩という武器を手にしてたたかいたおれたのである。
 チリ人民の希望と苦しみと悲劇の歌い手であり証人であったネルーダという星は、チリの空にのぼる血まみれの星として輝きつづけるであろう。

(『愛と革命の詩人ネルーダ』序章 大月書店 1974.6)

ネルーダ葬儀 




関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/1916-1dea5efe
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック