大島博光記念館にて
重田
大島博光記念館で、私は、私の祖父に再会するとともに、あるひとりの未知の詩人に出会った。
記念館の裏庭に面した奥まったところに、祖父の書斎を再現した部屋がある。私が小さかった頃に見た、祖父の椅子の後ろにならべられていた、あの辞書のように分厚い本たち、それがいまアラゴン全集となって、私の眼に新しく映る。書斎に座る祖父の一枚の写真。その満面の笑みに、私の遠い記憶にある祖父の高笑いの声までが、そのまま閉じ籠められているかのようで、私は思わず耳を澄ませた。そのとき、この部屋には祖父がいる、と私は思った。その存在の絶対的な不在がゆえに、私はその空白を満たすかのように、祖父の存在をかえってありありと思い浮かべることができるのだった。
これは私にとっての祖父との再会といえるものだったが、小さい頃とはちがい、私は祖父がひとりの詩人であったことを、いまでは知っている。書斎の丸テーブルに無造作に置かれたフランス書を何気なく手にとっていると、小林園子さんが私に言った。「これが詩人というものなのです。」その本には、翻訳なのか覚書のようなものなのか、広告紙の裏をつかって書かれたメモがたくさん挟まれてあった。祖父が詩人であったことを知ってはいても、容易に両者の像が結ばれないのは、小さい頃にしか祖父に接したことのなかった私としては無理もないのだが、園子さんの口からふいに「詩人」という言葉をきいたとたん、私のなかで祖父と詩人が、このメモ書が挟まれた本のなかで一点に結ばれたような気がした。ひとりの生活者としての自分から離れ、書物に思考を深く埋め、その思考が乾かないうちにさっと青いインクにのせて、かるやかな文字となってすべるように定着されていったかのような、詩人の仕事のきらめく破片、かけらたち。私はそんないかにも詩人らしい祖父の姿を、園子さんの言葉と一冊の本から、想像せずにはいられなかった。
*
記念館の入り口のわきに、詩碑がある。
千曲川よ
その水に風は足
跡をのこし
その水にわたし
はきみの名を書く
この詩碑をまえに、私は本当のひとりの未知の詩人に出会ったような気がした。それは、この詩にふさわしい、抑揚のある流れるような祖父自筆の字体で彫られてあった。ごく簡単な言葉の組合せが、これほどひとの心をさわがせるのは、どうしたわけだろうと、私は隠された秘密をさぐるように、何度も詩行の間をいったりきたりした。けれどもそこには、いってみるなら、詩の存在性、ともいうべき質感が、ただただ充溢していて、それ以外のものである必要はなかった。川も風も恋人も、詩句のなかにこれほど精確に配置されてみると、それらはほとんど、詩となるために存在している、とさえ思われてくるのだった。
「天気のいい日には、このけやきの木の下のベンチで詩を朗読するのです。」
と、詩碑のまえにちょうどよい具合にある憩いの場をさして、園子さんが言った。その日も天気が良く、木造りのベンチとテーブルのまわりには、樹立の梢の落とす五月の木漏れ陽が、まるで波の上にゆれる光りのように、溢れていた。
「このけやきの木は、博光さんがよくその詩に歌ったものです。」
と彼女はつけくわえた。光と影に彩られた綾模様をながめていると、かつてけやきの木に託した祖父の想いが、いまこの地の上に木蔭となって保たれている、と私はふと思った。それは、詩人が言葉をひとつひとつ精確にならべ、配置し、きらめかすことが、地に飾られる木漏れ陽と葉翳のアラベスクが風にゆられる、その精確さに、どこかでつうじているように思われたからだった。詩碑に書かれた詩は、そんな木蔭のように、くり返しくり返し、私たちの心の上に、そのくっきりとした反映を刻むのをやめないように思われた。
(『狼煙』72号 2013.8 )
重田
大島博光記念館で、私は、私の祖父に再会するとともに、あるひとりの未知の詩人に出会った。
記念館の裏庭に面した奥まったところに、祖父の書斎を再現した部屋がある。私が小さかった頃に見た、祖父の椅子の後ろにならべられていた、あの辞書のように分厚い本たち、それがいまアラゴン全集となって、私の眼に新しく映る。書斎に座る祖父の一枚の写真。その満面の笑みに、私の遠い記憶にある祖父の高笑いの声までが、そのまま閉じ籠められているかのようで、私は思わず耳を澄ませた。そのとき、この部屋には祖父がいる、と私は思った。その存在の絶対的な不在がゆえに、私はその空白を満たすかのように、祖父の存在をかえってありありと思い浮かべることができるのだった。
これは私にとっての祖父との再会といえるものだったが、小さい頃とはちがい、私は祖父がひとりの詩人であったことを、いまでは知っている。書斎の丸テーブルに無造作に置かれたフランス書を何気なく手にとっていると、小林園子さんが私に言った。「これが詩人というものなのです。」その本には、翻訳なのか覚書のようなものなのか、広告紙の裏をつかって書かれたメモがたくさん挟まれてあった。祖父が詩人であったことを知ってはいても、容易に両者の像が結ばれないのは、小さい頃にしか祖父に接したことのなかった私としては無理もないのだが、園子さんの口からふいに「詩人」という言葉をきいたとたん、私のなかで祖父と詩人が、このメモ書が挟まれた本のなかで一点に結ばれたような気がした。ひとりの生活者としての自分から離れ、書物に思考を深く埋め、その思考が乾かないうちにさっと青いインクにのせて、かるやかな文字となってすべるように定着されていったかのような、詩人の仕事のきらめく破片、かけらたち。私はそんないかにも詩人らしい祖父の姿を、園子さんの言葉と一冊の本から、想像せずにはいられなかった。
*
記念館の入り口のわきに、詩碑がある。
千曲川よ
その水に風は足
跡をのこし
その水にわたし
はきみの名を書く
この詩碑をまえに、私は本当のひとりの未知の詩人に出会ったような気がした。それは、この詩にふさわしい、抑揚のある流れるような祖父自筆の字体で彫られてあった。ごく簡単な言葉の組合せが、これほどひとの心をさわがせるのは、どうしたわけだろうと、私は隠された秘密をさぐるように、何度も詩行の間をいったりきたりした。けれどもそこには、いってみるなら、詩の存在性、ともいうべき質感が、ただただ充溢していて、それ以外のものである必要はなかった。川も風も恋人も、詩句のなかにこれほど精確に配置されてみると、それらはほとんど、詩となるために存在している、とさえ思われてくるのだった。
「天気のいい日には、このけやきの木の下のベンチで詩を朗読するのです。」
と、詩碑のまえにちょうどよい具合にある憩いの場をさして、園子さんが言った。その日も天気が良く、木造りのベンチとテーブルのまわりには、樹立の梢の落とす五月の木漏れ陽が、まるで波の上にゆれる光りのように、溢れていた。
「このけやきの木は、博光さんがよくその詩に歌ったものです。」
と彼女はつけくわえた。光と影に彩られた綾模様をながめていると、かつてけやきの木に託した祖父の想いが、いまこの地の上に木蔭となって保たれている、と私はふと思った。それは、詩人が言葉をひとつひとつ精確にならべ、配置し、きらめかすことが、地に飾られる木漏れ陽と葉翳のアラベスクが風にゆられる、その精確さに、どこかでつうじているように思われたからだった。詩碑に書かれた詩は、そんな木蔭のように、くり返しくり返し、私たちの心の上に、そのくっきりとした反映を刻むのをやめないように思われた。
(『狼煙』72号 2013.8 )
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