女流詩人・マドレーヌ・リフォについて Poetess, Madeleine Rifo/Resistance and Poets

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 女流詩人・マドレーヌ・リフォについて

 女流詩人マドレーヌ・リフォは、ジャーナリストとして有名で、わが国でも、『ベトコンの戦士たち』『解放戦争の二十年』などのルポルタージュが邦訳出版されている。
 レジスタンスの時代、彼女は対独抵抗運動学生グループの結成いらいその一員となり、有名なファビアン大佐の助手として活動した。一九四四年七月、パリのソルフェリノ街でドイツ軍将校を射殺して逮捕され、ソーセイ街のゲシュタポに連行された。彼女は書いている。
 「・・・わたしは逮捕された。階段をいくつもいくつも登らされた。ドイツ兵が銃の台尻でわたしの背中をこづきあげた。
 何階かわからない部屋に入れられて、あの七月二十三日の日曜日、わたしはそこで取り調べられた。部屋には、緑青色と鋼色の服をきたドイツ兵がいた。ひとりがわたしを椅子に縛りつけ、ひとりが愛想よくわたしにいった。
 『忠告するが、自分のことをみんな白状するのだ。さもないと、ほかの方法をつかって、おまえに吐かせなければならない。わしはドイツでは教授だった。おまえは学生だ。わしは友人として忠告しているのだ。』
 その日、訊問室を出たとき、わたしは鞭でひっぱたかれたために、額には血がにじみ、うわくちびるは裂け、顔じゅう皮下出血で紫色のまだら模様となり、膝からは血が流れ、両脚には大きな血のりができていた。
 ほかの日、わたしは、わたしにはなんの関係もない訊問に、わざと立ち会わされた。その訊問は長くつづいた。訊問される男の前に、恐怖に狂乱したかれの妻が縛りつけられていた。ドイツ兵たちは、この妻の面前で、男の生爪を剥いだ。その男が第二ビュローにぞくしていたことが、わたしにはわかっていた。わたしは気を失った。
 またあるとき、わたしは半ズボンをはいた少年にひきあわされた。ドイツ兵がいった。
 『こいつは、おまえとおなじ、小さなテロリストだ。おまえよりも小さくて、まだ子供だ。おまえが白状すれば、こいつをいためつけはしない。だが吐かなければ、こいつをひっぱたくが、それはおまえのせいだ』
 『わたしは何も知りません。ほんとうです。この子を打たないでください。なんにもしていないのです。この子はそっとしておいてください。わたしをぶってください。』
 ドイツ兵は頭を横にふると、鞭をふるって力まかせに少年をぶった。まったく怖ろしいかぎりであった。わたしは気も狂わんばかりにとりみだし、少年は泣きわめいた。かれの顔は血まみれになり、脚には赤い筋の縞模様ができた。少年が倒れると、ドイツ兵は足蹴にしてまた起き上がらせた。少年は泣きわめいて、鼻はほこりにまみれて汚れ、頬には涙が流れた。
 とうとうわたしが屈服して、ニセの連絡場所とニセのアドレスを言おうとしたそのとき、少年は頭と腕をこきぎみにふるわせて、なんにも言わないようにと合図をした。その後、わたしはもう二度とその少年に会わなかった。
 眼が覚めたら、わたしはほかの部屋にいた。ドイツ兵はわたしを素っ裸にして、凍るように冷たい水の浴槽のなかにわたしを突っ込んだ。わたしはがぶがぶ水を飲んだ。こんどこそは、わたしももう死んでしまいたかった。だがちょうどそのとき、だれかがわたしの髪をつかんで水から引き起こしてくれた。私服のドイツ人が、水のなかのわたしをなぐった。わたしがじたばたあばれて、襞(ひだ)のよくついた彼のズボンに水をひっかけたからだ……」
 けっきょくマドレーヌは死刑の宜告をうけたが、運命は彼女のうえに微笑むことになる。当時、彼女はパリ南郊フレーヌの収容所に入れられていた。一九四四年八月十五日、フレーヌからほかの収容所にゆく最後の列車が出発した。この列車に乗せられた抑留者は、後にみんな殺されることになる。マドレーヌはほかの二人の死刑囚といっしょに脱走した。しかしつかまって、ふたたび独房にぶちこまれた。一九四四年八月十七日、フレーヌには、執行猶予の死刑囚はマドレーヌたち三人しかいなかった。そのとき、二十四時間の戦闘停止協定が結ばれて、スウェーデン領事ノルディングが「赤十字」から派遣されてきた。かれは三人の死刑囚をドイツ兵から救い出そうとした。ドイツ兵のひとりが、マドレーヌを指さしていった。「いや、あの女はだめだ。あの女は将校を殺したのだ……」しかし、三人の死刑囚はノルディングのうしろに身をかくすことに成功し、一台の自動串に乗りこんだ。二時間後にかれらは、味方の防備する中庭のなかに立っていた……こうしてマドレーヌは奇跡的に死をまぬかれたのであった。

 はじめ、マドレーヌ・リフォは組織の連絡係であった。地下鉄(メトロ)のなかは敵の見張りや手入れが多くて危険なので、地下鉄に乗ることは禁じられていた。そこで彼女は徒歩で、バリじゆうを歩きまわらねばならなかった。連絡から連絡へと、歩く道は長かった。そうして見たり聞いたりしたことから詩が生まれ、彼女はベンチに腰をおろしたり、樹によりかかって、その詩を書きとめた。彼女はのちに回想している。
 「あの頃、わたしはほんとうに詩人でした。わたしのグループのみんなも詩人でした。みんなで自分たちの詩を読み合ったものです。」
 彼女は用心深く、詩を暗号で書かねはならなかった。それも、地下鉄の切符ほどの紙きれに書きとめた。たとえば、「おまえは仲間といっしょに街を歩いている」というなんの変哲もない一行は、「おまえは手榴弾をもって街を歩いている」ということを意味した。それは彼女自身の姿でもあった。
 レジスタンスの戦闘グループ、しかも詩人たちのグループにくわわって、リフォはいよいよ詩を書くすべをみがいた。詩と生活とがまじりあい、ふれあった。

  まっ白な鳩が 青い空を飛んできて
  そっと わたしの頬を 撫でた

 これは「落し罠」という詩の一節である。この白い鳩はじっさいにパリの街なかを飛んでいたのか、それとも詩人の幻想なのか。──この問いにたいして彼女は答えている。
 「一九四四年七月二十三日、日曜日の午後、わたしがソルフェリーノ橋でドイツ軍の将校を倒して、ガル・ド・オルセ(駅)の方へ逃げるところを逮捕され、ノートル・ダムの正面にあったドイツ軍留置所にはいろうとしたそのとき、白い鳩がわたしを掠(かす)めて飛んでいったのです……」
 このノートル・ダムの正面にあった留置所が彼女の最初の独房であって、白い鳩の詩もここで書かれたのにちがいない。彼女はそこからソーセイ街のゲシュタポの拷問センターに移され、それからパリ南郊フレーヌの政治犯収容所に入れられた。
 フレーヌでも、彼女は詩をかいた。恐らく死刑囚が捨てていった石墨のきれはしで、『キリストのまねび』の余白にかいた。死刑囚の彼女に、死の覚悟をするようにと、看守が『キリストのまねび』を与えたのであった。聖セバスチアンをうたった詩、「鼠を殺して面白がる」ドイツのイメージ、まもなく銃殺される死刑囚に投げてやる数珠の詩……そして彼女は、両手を背中で縛られて、最後の長い旅と死刑執行の日を待っていた。しかし彼女は十九歳で死なずに、バリケードのなかで、二十歳(はたち)を祝った。レプュブリック広場で、義勇軍がナチ親衛隊最後の拠点を襲撃したとき、そのなかに彼女の姿もまじっていた……
 十一月十一日、凱旋門ちかくのトロワイヨン街の酒場で、彼女はポール・エリュアールを識った。彼女は書いている。
 「彼はわたしをじっと見つめて、たずねました。──きみはいま何をしているの?──何も職業がないのです。機関銃を射つほか、何も知らないのです。牢のなかで詩をかきました。文章をかくのは得意です。──エリュアールはわたしのことをわかってくれて、アラゴンのところにわたしを紹介してくれたのです。そうしてわたしはジャーナリストになったのです。」
 こうして彼女は戦後『ユマニテ』の特派員として、ベトナム戦争やアルジェリアの独立闘争のルポルタージュを書くことになる……

<大島博光『レジスタンスと詩人たち』白石書店 1981年>

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