ニクソンサイドのすすめとチリ革命への賛歌──まえがき Incitación al nixonicidio y alabanza de la revolución chilena/ el prologo

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 まえがき   El prologo

 ここに、書かれたばかりの一冊の本がある。この本は、古今の死んだ詩人たち、および現存の詩人たちを動員して、冷酷で気ちがいじみた皆殺し(ジェノサイド)作戦を、歴史の壁に刻みこむのである。
 この本のなかには、皆殺し(ジェノサイド)作戦の中止勧告と、判決と、それの可能な最終的消滅とが、相ついで現われてくる。こんど始めて用いられた詩的砲撃の効果のもとに。

 歴史は、詩がひとをたたきのめすことができることを証明した。わたしもまた、そうするために詩を援用する。それだけのことだ。

 ニクソンは、人類にたいする叛逆行為において、あらゆる先任者たちの罪業を蓄積している。休戦条約の協定後に、かれが世界史上もっとも残酷な、もっとも破壊的な、もっとも卑劣な爆撃を命令したとき、それは頂点に達した。

 ただ詩人たちだけが、かれを壁にはりつけ、痛烈で致命的な詩句によってかれを穴だらけにすることができる。詩の義務は、韻律と脚韻の砲撃によって、かれをぼろくそにうちのめすことである。

 かれはまた、チリ革命を孤立化させ、崩壊させるために、経済封鎖にも干渉した。

 そのために、かれは、種々の手下や、I.T.Tのスパイ網のような、公然たるスパイたちを使い、また一方では、チリを裏切ったチリ人ファシストどものなかの、もっとも陰険なもの、腹黒いもの、挑発者などをも使った。

 このように、この詩集の長い題名は、世界の現情勢と近い過去とを反映しておどおり、そしてありがたいことに! われわれが、敵による脅しと苦しみの光景として、あとに残すであろうものをも、反映しているのである。わたしは、テロリズムにたいしては、断乎たる反対者である。それはほとんどつねに、無責任な卑劣さと、名づけようもない残酷さとによって行なわれるという理由からだけではなく、それらの結果は、ブーメランのようにもどってきて、それについて何も知らない民衆を傷つけるからである。

 しかしながら、わが国の状況、われわれの政治的「平和」にしばしば黒い影をおとした怖るべき行動は、わたしの心を傾倒させた。シュナイダー将軍の暗殺者どもは、相変らず、りっぱな牢獄のなかや、外国の豪奢なホテルで暮らしているのである。

 ある不正な裁判官たちは、それら暗殺者どもの刑罰を、まるでたった雌鶏一羽を盗んだものを罰するような、そんな軽い刑罰にひき下げたのである。判事と呼ばれる連中が、これほどにも破廉恥になりうるとは、信じがたい。

 この文章をよんで、ひとは顔をしかめて言うだろう。わたしは司法官を侮辱していると。いや、ちがうのだ! すべての人間的な規律、とりわけ、ひとを裁くという微妙な行為は、わたしには、なみなみならぬ尊敬にあたいするものに見える。しかし、わたしはさらにこう考える。法廷でおこなわれる「不義不正」、──「公明正大」であるべき人びとのおこなう「不義不正」は、健全な理性をうたがわせるに足る、きわめて重大なものである。

 わたしはここでまた、ほかの問題とほかの人物たちのことを明らかにしておこう。わたしは、ある人びとと面識もあり、尊敬もしていた。ところが、チリに帰ってきてみると、それらの人びとがゲームのルールにすっかりそむいていることがわかった。かれらは、みにくい野心に駆られて、反動や悪辣な人民の敵と協力していたのである。そこでわたしは、いままでかれらについて抱いていた認識を改めることにした。かれらは、これほどにも自尊心に欠け、かれらの思想──キリスト教民主主義として表明していたあの思想を、みずからどぶのなかに投げ捨てたのである。だから、ひとりの詩人が、かれらの捨てた思想を、かれらに拾ってやる理由などは、まったくないのだ。

 わたしはまた、この詩集には、キューバ革命にささげられたスペイン語による最初の詩集である『武勲(いさおし)の歌』とおなじように、繊細な表現についての配慮や野心がない、ということを明らかにしておかなければならない。

 わたしは、老練な機械工のように、経験を積んだ腕前を失ってはいない。だが、わたしはときどき、大衆に役立つ吟遊詩人にならなければならない。制動手の役をつとめたり、羊飼い頭になったり、親方をつとめたり、農夫やガス工夫になったり、また、部隊きっての喧嘩好きになって、げんこつで渡りあったり、鼻の穴から火を吹いたりしなければならない。

 そこで、洗練された、眼の肥えた芸術至上主義者たちは、−まだそういう連中がいるとしてーそんなわたしの詩には、うんざりするがいい。これらの詩の栄養は、ある人たちの口にはあわないほど酸っぱくて、辛辣な酢であり、爆薬である。しかし、それは、人民の健康には、きっとよくきくであろう。わたしには、それ以外にやりようがない。わが人民の敵に立ちむかうわたしの歌は攻撃的であり、アラウカニア*の石つぶてのように痛烈なのだ。

 この任務は一時的なものかも知れない。だが、わたしはそれを引き受ける。

 そしてわたしは、敵をうち破るために古典主義者もロマン主義者も用いた、もっとも古い詩の武器──歌とパンフレットに訴えるのである。

 さあ、用心するがいい、わたしは引きがねをひく!

                   イスラ・ネグラにて
                       一九七三年一月  ネルーダ

*アラウカニア──スペイン征服者はチリの原住民マプーチェ族をアラウコ族とよび、その土地をアラウカニアとよんだ。インカ族の侵入にも、スペイン征服者にも頑強に抵抗した。その勇猛きは十六世紀アロンゾ・デ・エルシージャの詩『アラウカニア』にうたわれた。(本書八四頁参照)

<新日本出版社『ネルーダ最後の詩集──チリ革命への賛歌』1974.5>
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