パリ・コミューン 血の週間 (8)──五月二十五日/Commune de Paris_Semaine Sanglante

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 五月二十五日の明け方は朝焼けがして、この日も晴れあがった天気のいい日だった。
 ヴェルサイユ軍は、植物園を占領し、リヨン駅に進出する。他の部隊は、シャトー・ドー広場(レ・ピュブリック広場)に迫る。フォーブール・サン・ドニのバリケードで、十七人の連盟兵は、降服の勧告をうけるが、拒否して倒れる。そのなかのひとりは赤旗を身に巻きつけていた。
 バスティーユ広場とシャトー・ドーが戦闘の中心となる。
 第十一区役所で、コミューンの残った評議員二十二名によって、最後の評議会がひらかれる。プロイセン軍司令部と連絡のあるアメリカ大使に、休戦交渉の斡旋を頼むことが討議される。しかし、警視は、ヴァンセンヌ門の通過を誰にも許さなかつたので、結局、休戦交渉という考えは放棄される。「軍事委代表」の老革命家ドレクリューズは言う。「もう死ぬ道しか残っていない」
 ドレクリューズと五十人ほどの連盟兵が、ヴォルテール大通りのバリケードにさしかかると、バリケードから五十メートルばかりの所に砲弾が破裂して、小部隊は後退する。
 「ドレクリューズは、あとに誰かが随(つ)いてくるかどうか、振り返りもせず、おなじ足どりで進んだ。ヴォルテール大通りの広い舗道に、生きた存在といえば、かれだけであった。バリケードに着くや、かれは斜め左の方に進んで、バリケードの敷石を登った。最後に、短い白いひげに縁どられた、あのいかめしい顔が、死の方に向けられるのが見えた。忽ち、ドレクリューズの姿は消えた。かれは一撃のもとに倒されたのだ……」(リサガレ)
 このとき、ドレクリューズは六十二歳で、みんなに「お爺(じい)さん」と言われて親しまれていた。生涯の三十六年間を、かれは牢獄で過ごしてきた。かれは、もうこれ以上、希望がたたきのめされるのを見るにしのびなかったのである。
 ムフタール街、サン・ジャック辻公園、ブランシュ広場、セバストポール大通りなどのバリケードでは、女たちも、男たちとおなじように戦った。あるイギリスの学生の証言によれば、五十二人の女たちがヴェルサイユ軍に銃殺されるのを見たという。
 サン・シュルピス神学校に設けられた野戦病院では、ファノー博士が、戦争の当初から傷病兵を診療し、いまでは負傷したコミューン戦士たちをも看護していたが、べつにコミューンを支持していたわけではなかった。建物のうえに、赤十字の旗がひるがえっていた。
 数人の部下を連れた将校が乗りこんできて尋ねた。
 「ここには、負傷した連盟兵はいないのか」
 「いますが、もうずっと前から看(み)ているのです」
 「おまえも、あのろくでなしどもの仲間だ。おまえも銃殺だ。」
 たちどころに、医師は銃殺され、数人の患者が、病室のベッドのうえで殺された。
 夜になると、ヴェルサイユ軍は、シャラントン街からバスティーユ、サン・マルタン劇場を通って、ラ・ヴィレット門にいたる線に進出する。コミューン軍にはもはや大砲もなく、銃はあっても、死んだ兵士たちの弾薬を拾いあつめるという始末であった。夜間にもヴェルサイユ軍の攻撃はつづいて、シャペル大通りとリヨン駅が占領される。

(つづく)
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