ピカソ「新古典主義の大女たち」(4)牧神(パン)の笛

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 この時期の集約的な作品として「牧神(パン)の笛」をあげることができよう。ここには、海辺の大女たちにふさわしいような、二人の若い男が描かれている。ピカソは二人の若者を、ギリシャ彫刻にみられるような二つの姿勢で巧みに表現している。ひとりは坐って笛を吹いている。もうひとりは立って笛の音にきき入っている。この人物は全身の重みを片方の足だけで支えていて、古代のアポロを思わせる。その足は武骨で大きい。背景には典型的な地中海の風景。純粋さと単純さ。逞しい脚と腕と拳(こぶし)……画面の雰囲気はあきらかに古代の田園詩や牧歌のそれではない。フェルミジエは言う。「二人の人物は、頑丈でどっしりとして、逞しい肉体をした若い農夫か若い漁師である。彼らは凝った襞のついた着物などつけずに、きわめて粗末な下着をつけていて、彼らが庶民出の人物であることを強調している。ここにはいかなる理想化もない」
 この作品は、大地に根ざした人間にささげられた大いなる讃歌であろう。
 キュビスムを追求するさなかに、このような古典主義的な大女、大男たちが出現したことは驚きであった。この突然の変化について質問したインタビュアーに、ピカソは答えている。
 「現代絵画が問題になるとき、探求という言葉に重要さが与えられるが、そんな重要さはわたしにはよくわからない。わたしの考えでは、絵画にあっては、探求するということにはなんの意味もない。大事なのは見いだすことだ。画を描くとき、わたしの目的は、わたしの見いだしたものを表現することであって、探求しつつあるものを表現することではない。……探求という考えは、さまざまな迷い、あやまちの源泉(もと)であって、まったく精神的な苦心の駄作へと芸術家を追いやってきた。ある人びとは探求の精神に毒されて、現代芸術のなかにある積極的なもの、確かなものを理解しなかった。そうして探求の精神は彼等をそそのかして、眼に見えないもの、したがって非絵画的なものを描くように仕向けたのである……。
 わたしがじぶんの芸術で用いてきたさまざまな手法(マニエール)は、未知の絵画の或る理想をめざしての一歩、あるいはひとつの発展として見なされてはならない……わたしは探求の精神を重要なものと見なしたことは一度もない。わたしは表現したい何かを見つけると、過去も未来も考えずにそれを表現した……言いたい何かがあったときにはそのつど、わたしはそれを言うに必要と感じた手法で言ってきた……」(ニューヨーク『芸術』誌一九二三年五月)

牧神の笛
牧神の笛

(つづく)


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