パリ・コミューヌとヴイクトル・ユゴー ──「怖るべき年」にふれて(6)

ここでは、「パリ・コミューヌとヴイクトル・ユゴー ──「怖るべき年」にふれて(6)」 に関する記事を紹介しています。
 『怖るべき年』

 ヴィクトル・ユゴーがナポレオン三世の重なる失政と戦争に期待していたものを、一八七〇年代の普佛戦争がもたらした。つまり、この普佛戦争におけるナポレオン三世の敗北ののち、パリ市民が蜂起すると、たちまち帝国は崩壊し、共和国が生まれると、ユゴーは亡命先からフランスに帰る。
 詩集『怖るべき年』は、その一部はコミューヌのさなかに書かれ、その他は一八七一年の夏のルクセンブルグ滞在中に書かれる。『怖るべき年』の後篇は、それが書かれた日付の順にならべられていて、一八七〇年八月から一八七一年七月にいたる、詩で書かれた日記となっている。そこではすべてが日付をもち、言われた日に書かれ、前日に書かれるわけにはゆかなかった。月から月へ、普佛戦争、コミューヌ、野蛮な弾圧へとつづく。この詩集は英雄主義の讃歌であり、弾圧された人民の悲劇を描いているという点で、『懲罰詩集』につながるものである。そうしてまたこの詩集は、二十世紀にむけて書かれたフランス詩の重要な証言でもある。アラゴンはこの詩集を懲罰詩集よりも高く評価している。
 『怖るべき年』の初版は一八七二年四月に刊行された。その序文によれば、戒厳令はまだつづいていて、そのためにいくつかの詩句は削除され、いくつかの詩はとりのぞかねばならなかったという。初版では、「銃殺された人びと」という詩のなかから、検閲によって一行の詩句が削除されている。

 かれらは寒さに震え 飢えはてていたのではないか
 そのためだ 彼らが……
 あの傷つけられた魂の名においてそうわたしは断言する。

 この削除された部分は「彼らが君らのチュイレリーを焼き払ったのは……」である。
 この詩を書いた時から、ユゴーは「君らのチュイレリー」と言って、焼きはらわれた宮殿を惜しまずに、ヴェルサイユ軍がその宮殿の名において虐殺しようとした人民の側に移行する。その前の部分で彼は書いている。

 遅すぎた同情がなんの役に立とう? この暗闇!
 この陰怪な時を前にした彼らにとって われらは何ものだったのか
 あの女たちをわれらは守ってやったか 膝のうえに
 あの裸かで震えている子供たちを抱きあげてやったか

 ここにはユゴーの深いヒューマニスムの精神が鳴りひびいている。「崩れ落ちた宮殿よりも死んだひとりの子供に心動かす」人間の精神が高鳴っている。そうして彼は「足で踏んづけられた人たちに」という詩のなかで人民にむかって言う。

 おお 私は君らの仲間だ 私はあのほの暗い悦びをもつ
 うちひしがれ うちのめされ 撃ち殺されるひとびとが、
 わたしをひきつける……
 ……
 朝 墓穴から手が出ているのが見え
 みごもった女たちが殺されたことを想うとき……

(つづく)
関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://oshimahakkou.blog44.fc2.com/tb.php/1727-1497f47b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック