パリ・コミューヌとヴイクトル・ユゴー ──「怖るべき年」にふれて(4)

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 ブリュッセルからルクセンブルグヘ

 四日後の三月二十一日、ユゴーは孫たちのいるブリュッセルに赴き、そこでコミューヌの崩壊、虐殺、人間狩りなどのニュースを知る。
 五月二十五日、ベルギー政府の外務省は声明する──「ほとんど人間の名にあたいしないやから、あらゆる文明国において被告席に据えられるべきやから」すなわちコミューヌ戦士の亡命を受け入れないと。
 そこでユゴーは、ベルギーの新聞に長い手紙を送り、コミューヌの罪を非難すると同時に、ヴェルサイユの犯罪を弾劾し、さらにつぎのように書く。
 「わたしはここに宣言する。ベルギー政府がコミューヌの敗北者たちに拒否する隠れ家をわたしが提供する。どこに? ベルギーにおいて。わたしはこの名誉をベルギーにあたえる。わたしはブリュッセルの隠れ家を提供する。バリカード広場四番地の隠れ家を……」
 五月二十七日の夜、ユゴーの宣言に反対するベルギーの若者の一群が、彼の家をおそい、かれに石を投げつける。最初、ユゴーがかれらに扉をひらいたのは、彼等のひとりが策略をもちい、ペールラシェーズ墓地での虐殺をのがれたコミュナールのドンブコウスキーだと名のったからである。こうしてユゴーは、ひとりのコミューヌ戦士に隠れ家を提供しようとして危うく死ぬところであった。
 つづいて五月三十日、ベルギー政府は通告する。「六十九歳、文学者ユゴー氏は直ちに王国を離れるべし。なお将来も入国を禁ず」。
 そこで詩人はルクセンブルグのヴィアンドンに移り、そこで『怖るべき年』を書きつづける。
 ここの滞在中、ガローというコミュナールの若い未亡人、十八歳のマリー・メルシェがユゴーの家に現われる。彼女は多くのコミュナールたちといっしょにパリを逃れて、歩いたり、出会った馬車に乗せてもらったりして、コミュナールの擁護者として有名なユゴーの扉をたたきに来たのである。詩人は彼女を家にとめてやる。マリーはまだあどけなさの残っている愛らしいパリ女であった。彼女との接触で、六十九歳の詩人は若返る。詩人はマリーをやさしく慰めてやり、彼女はパリにおける戦闘の思い出を詩人に話してきかせる。バリケードやペールラシェーズ墓地の壁の前で流された血の物語を……詩人はそれらを『怖るべき年』のなかに書きこんでゆく。
 ユゴーは[マリー・メルシェの話]としてつぎのようなノートをのこしている。
「──わたしの夫はマザスの牢獄で銃殺され、べルシーの墓地に葬られました。わたしは夫の遺体をたしかめに行きました。そこには少くとも銃殺された六百人の遺体があり、そのなかには数人の女と三人の子供がいました。そこに十七歳くらいのひとりの若い娘がいました。彼女はわたしが名を忘れてしまったある通路にいました。『──通路にいるその娘をつかまえろ……』という声が聞こえました。彼女は黒衣をきて、墓地の隅にいたのです。彼女の母親が彼女に気付かずにやってくるのが見えました。フォーブール・サン・タントワーヌのバリケードでは、子供を腕に抱いた女が銃殺されるのを見ました。子供は生後まもない赤ん坊で、母親といっしょに銃殺されたのです。この母親を銃殺したのは第一一四部隊の兵隊たちでした。『このヴェルサイユの悪党どもがわたしの夫を殺したんだ』──そう彼女が叫んだために、彼女は銃殺されたのです。
 ウードの奥さんは妊娠七ヵ月の身で銃殺されました。彼女には四、五歳の女の子がいましたが、その女の子もまた銃殺されたということです。
 口ケット街では、およそ二千人ほどの親なしの子供がバリケードで見つけられて銃殺されました。子供たちは住む家もなかったので機関銃で殺されたのです。〈この大量殺害のために、機関銃が役立ったのです。)多くの子供たちは、墓穴に葬られるあいだ、『お母さん…』と泣き叫んでいました。
 マリー.メルシエは屍体を満載した三台の運搬車の血の跡をたどってべルシーの基地まで行った。三台のうちの一つに、彼女の夫がいた」(『見聞録』Choses vues. 一八七〇年−一八八五年フォリオ版四百八十八ページ)。
 そして、マリーの話はつぎのような話に書き変えられる。

 ある女が わたしに話した

ある女が わたしに話した──わたしは逃げました
胸に抱いていた小さな娘が 泣きわめいて
その声が敵に聞こえはせぬかと 心配でした
考えてもみてください 生まれて二ヵ月の子供で
娘には まだ蠅ほどの力もなかったのです
わたしはくちずけをして娘の口を封じようとしました
娘はなおも泣きわめき ぜいぜい息をはずませました
娘は乳をのみたかったのに わたしの乳は出なかったのです
ひと晩じゅう そんな風にして過ぎました
わたしは通りの扉のかげに身を隠していました
涙にぬれたわたしの眼に鉄砲の光るのが見えました
兵隊が夫を銃殺しようと探しまわっていたのです
とつぜん 朝がた この怖ろしい扉のかげで
子供は泣かなくなりました 娘は死んでしまったのです
さわってみると もう冷めたくなっていました
気も狂わんばかりわたしは娘を抱いてさまよい出ました
走ってゆくわたしに ゆく人が 声をかけてくれました
それでもわたしは逃げのびて どこかの野なかの人気のない さびしい土地の 樹のしたに
わたしは自分の手で穴を掘って その土のなかに
眠っているわたしの天使を寝かせてやりました
乳をふくませて育てたわが子を葬るのはつらいものでした

 その場にいた父親はすすり泣きをはじめました

(つづく)

(『文化評論』1982年12月号)
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