パリ・コミューヌとヴイクトル・ユゴー ──「怖るべき年」にふれて(3)

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 ユゴー素描

 ヴィクトル・ユゴーの生涯と芸術は、一八〇二年から一八八五年にわたって繰りひろげられる。つまりユゴーはナポレオン帝制の前夜に生まれ、マルクスの没後二年後に死んだことになる。かれの文学的業績は、一九世紀と呼ばれるあの長い嵐のなかに揺れ動いた。かれの作品はバスチイユの廃墟のうえに生まれ、シカゴの労働組合が最初のメーデーをたたかって、「春はわれらが階級のものだ」と宣言したときに終りを告げる。
 父親のレオポルド・ユゴー将軍はナポレオンのもとで戦功を立てた。彼は息子のヴィクトルを軍用運搬車に乗せて連れ歩いた。
 彼はルイ十八世治下では王党派であり、ルイ・フィリップ治下では上院議員であり、一八四八年の二月革命では共和主義者であり、ナポレオン三世の第二帝制下では自由の象徴であり、一八七〇年の普仏戦争においてはプロシヤ侵略軍にたいするレジスタンスの象徴であり、パリ・コミューヌにおいては、初めは「天をも衝く」パリ労働者の蜂起に怖れをなしたが、のちにはティェールの虐殺に反対する最初の声をあげ、一貫してコミュナールを擁護しコミュナールにたいする恩赦を要求しつづける。
 この「ユニークなヴィクトル・ユゴー」(シャルル・ペギー)──その死後も長いあいだフランス領の地平を蔽っていたこの天才は、しかしながら、腹黒い反動ども、へぼ詩人どもによってこんにちなお憎悪されているのである。
 生前でさえ、ザヴィエ・ド・モンテパンのような三文文士たちは、この十九世紀最大の詩人をフランス文学者協会から除名しようとしたほどである。
 だが、「ユゴーはシェイクスピアやホメロスと同様に評価されねばならないだろう。ユゴーはダンテやプーシキンと並ぶことのできるフランスの詩人である」(アラゴン)。


 一八七一年三月十八日

 パリ・コミューヌは、一八七一年三月十八日のバリケードのうえに立ち上がった。その日パリの市民たちは、市民の拠金によって造った大砲をプロシヤ軍に引き渡すことを拒絶して立ち上がったのである。そして通行止めになった街のなかを一つの葬列が進んでいた。ヴィクトル・ユゴーが、ボルドーから到着したばかりの、死んだ息子シャルルの遺体を運んでいたのである。葬列が通りかかると、コミューヌのバリケードは道を開け、蜂起した市民たちは詩人とその息子の遺体に敬意をあらわした。それは象徴以上のものである。ユゴーはその日の模様を日記に書いている。
 「一八七一年三月十八日。
……正午われわれはペール・ラシェーズ墓地へ向かう。わたしは帽子をかぶらずに霊柩車に従い、ヴィクトルが傍を歩く。すべての友人たちと民衆がつづく。ひとびとは叫ぶ、『脱帽!』
 バスチ一ユ広場では霊柩車のまわりに、国民衛兵たちによって自然に弔意の護衛隊がつくられ、かれらは銃を下げて行進する。基地までの道筋には、戦闘体形を組んだ国民衛兵大隊が捧げ銃をし、旗を下げて敬礼する。ラッパが鳴る。民衆はわたしの通るのを静かに待っていて、やがて『共和国万歳!』と叫ぶ……
 ──墓地で群衆のなかにミリエールを見つける。彼はまっかで、ひどく感動していて、わたしに挨拶した、……二つの暮石のあいだから大きな手がわたしの方へ差し伸ばされ、ひとつの声がわたしに言った。「──わたしがクールベです。」同時にわたしは精力的で友情にみちた顔を見た。その顔は眼に涙をうかべてわたしに微笑んでいた。その手をわたしは堅く握りしめた。わたしがクールベに会った最初である……」
 コミューヌの指導的立場にあったミリエールや画家クールベも葬儀に参列して、ユゴーに弔意をあらわしたのである。
(つづく)

(『文化評論』1982年12月号)
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