パリ・コミューヌとヴイクトル・ユゴー ──「怖るべき年」にふれて(2)

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 コミューヌにたいするフランス文壇の反応 (つづき)

 フランスの文学界は、一八七一年のパリ・コミューヌにたいして、洞察にとんだ見解も理解もほとんど示していない。文壇のもっとも著名な代表者たちは、この革命をたんなる集団的暴力の暴発とみなしている。ランボオとヴェルレーヌ、あるいはコミューヌそのものに参加したジュール・ヴァレスをのぞいて、名声ある文学者たち、また名をなさぬ作家たちさえもが、この大事件をわきから傍観して、溢れんばかりの憎悪を投げつけているのである。それらの作家たちは、文壇におけるおのれの特権をまもるために反動化したものであって、コミューヌにたいする彼らの態度を決定したものは、「赤」への恐怖、「共産主義」への恐怖であった。ゴンクール兄弟、ルナン・コーチエ、フローベル、テーヌ、小デュマなどの例をみると、かれらはみなコミューヌの翌日に、すでにこの「共産主義の恐怖」にとらわれ、人民への憎悪に駆られているのである。
 コミューヌの折の文学界は、作家の置かれた状況や偶然によって、三つのカテゴリーに分けられる。
 エドモン・ド・ゴンクール、カチュル・マンデス、ルナン、ゴーチエなどのように、コミューヌのときパリにいたグループ。
 フローベルやジョルジュ・サンドのように、田舎にいて事件を知っても、それに動かされなかった作家たち。
 小デュマ、コペ、エミィル・ゾラのように、ティエールのパリ脱出後、ヴェルサイユに移り住んだひとたち。
 これらの作家たちは大部分、コミューヌの革命が勃発したとき、すでに五十歳を越えていた。ジョルジュ・サンドは六十七歳、ゴーチエは六十歳、ルコン・ド・ゴンクール、ルナン、小デュマも五十歳に手のとどくところであった。ゾラは最年少で、三十一歳であった。
 ここで、これらの作家たちの年齢をあげたのは、世代間の断絶を云々するためではなく、かれらがほとんど成功者、いわゆる「成り上がり者」であったことを指摘するためである。これらの作家たちは、第二帝制のナポレオン三世の独裁を受けいれていた。そのことからして、彼らは新たな冒険を試み、あるいは革新を志向するという趣味も覇気も失っていた。こうして彼らは宮廷の恩恵に浴していたのである。小デュマ、フローベル、ゴンクール兄弟、テーヌなどはみな、有名なマチルド公爵のサロンの常連であった。
 また芸術至上主義で知られる詩人ゴーチエのように、アカデミー会員になりたいという熱望のあまり、卑劣な策謀を弄した者もいる。ゴンクール兄弟は一八六九年三月三十一日付の日記に書きしるしている。
 「この男が宮廷筋の引き立てと恩恵を得ようとして、きわめて下劣な言動をとっているのは驚くべきことだ。へつらいが、彼の下劣な性分をいっそうかき立てている。いまや彼は友人たちにとって、もっとも下品な卑屈さ、もっとも卑しいへつらいの、情けない、不愉快な芝居を演じている……」
 上流社交界にぞくしていたこれらの無気力な作家詩人たちも、その政治的信条のうえでは、王党派、ボナパルティスト、あるいはブルジョワ共和主義者などに分かれていた。
 ルコント・ド・リールやジョルジュ・サンドのように、一八四八年の革命のなかに新時代の到来を見ていた人たちも、その後はおのれの進歩的な見解にくるりと背をむけて、脱政治、没政治をふりまくにいたる。
 これらの無気力な作家詩人たちは皮肉なことに、ブルジョワジーや貴族たちと生活を共にしながら、その風習、功利主義、因習的な順応主義、無教養ぶりなどを嘲笑していた。しかし彼らはその社会の経済的基礎にたいして批判を加えるようなことはしなかった。
 フローベルはよくつぎのように言ったものだ。──あらゆる芸術家はおのれの生活のなかに二つの部分をつくるべきだ、つまり「ブルジョワとして生きる」一方、他方では「半神として考える」のだと。さらにこの二分法を正当化するために付け加える。「肉体の満足と頭脳の満足との間にはなんの共通点もない」と。
 プローベルが「半神として考える」ために、「ブルジョワとして生きる」ことを放棄すべきか否かを決定する、重大な時がやってきたとき、彼はしかしその同僚とおなじように振舞った。彼はブルジョワとして生き、コミュナールたちにこの上もない侮辱を浴びせたのである。それも、フランスの偉大な作家のひとりの言葉として、それを引用するのもはばかれるような、ひどい侮辱を浴びせたのだ。
 つまり、パリ・コミューヌにたいするフランス文壇の、陰険でしばしばヒステリックな反動は、けっきょく階級的な反動だったのである。
 エミール・ゾラ──後年ドレフュス事件において偉大なゾラとなる、そのゾラでさえ、一八七一年六月三日、パリでコミュナールヘの追及と処刑がつづけられていた時、つぎのように書いた。
 「パリの人民がいま浴びたばかりの血の風呂は、恐らく彼らの熱病を鎮めるのにどうしても必要だったのだ……」
 ゴーチエやマキシム・デュ・カンにとっても同じように、エミール・ゾラにとっても、三月十八日のコミューヌ革命はひとつの政治闘争でもなく社会革命でもなく、じつに「熱病」であり、「気ちがいじみた悪夢」であり、「危険な気ちがいども」の一群がひき起こした暴動にすぎなかったのである。
 ヴィクトル・ユゴーを例外として、当時有名だった大作家のひとりとして、ヴェルサイユ政府の宣伝するコミューヌ反対のデマゴギーや心理作戦から逃れることはできなかった。たしかにユゴーも、はじめコミューヌの本質を理解するにはいたらなかったが、ティエールの命ずるコミュナール虐殺に反対する最初の声をあげたのはユゴーであった。
 ジョルジュ・サンドは一八四八年の二月革命に際しては社会主義者であり、熱烈な共和主義者であった。しかし、コミューヌについては「もっとも狂暴なやからの支配」と言い、「狂気のどんちゃん騒ぎ」と呼んだのである。
 当時まだ若かったアナトール・フランスも──後年フランス社会主義の戦列に加わることになるアナトール・フランスも、コミューヌについてはなんらの理解をも示さなかった。そればかりか、後になって彼じしんが赤面するような見解を抱いていた。若きアナトール・フランスにとって、コミューヌは「犯罪と狂気の政府」であり、「暗殺者たちの委員会」であり、「ならず者の一味」だったのである。
 こうしてパリ・コミューヌにおけるフランス文学の名誉を救ったのは、まさに無名の詩人たちであり、「インターナショナル」の作者ウジェーヌ・ポティエや、「さくらんぼの熟れる頃」の詩人ジャン・バティスト・クレマンのような労働者詩人たちであった。それに三人の天才的な詩人たちを加えねばならない。ヴィクトル・ユゴー、ポール・ヴェルレーヌ、アルチュール・ランボオ──この三人の詩人たちはめいめいの流儀で、コミューヌ戦士に襲いかかったヴェルサイユの猟犬どもにびくともせずに立ち向かったのである。
 ヴェルレーヌは、コミューヌの出版新聞部長の任務をひきうけ、いくつかの詩をコミューヌ戦士の思い出にささげている。
 ランボオは、その稀有な詩的天賦を示す詩をコミューヌそのものにささげている。「地獄の季節」はパリ・コミューヌの悲劇のファンタスティックな反映である。
 そしてヴィクトル・ユゴーは、一八七一年五月の血の弾圧のさなかにも、勇敢にコミューヌ戦士たちを擁護し、弁護し、そして詩集『怖るべき年』を書いたのだった。
(つづく)

(『文化評論』1982年12月号)
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