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対談「三人のパブロ」(4)ずばぬけていた真実発見する知性

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対談「三人のパブロ」 カザルス、ピカソ、ネルーダの芸術(4)
               大島博光(詩人)
               井上頼豊(チェリスト)

 ずばぬけていた真実発見する知性

 大島 カザルスが愛したというバッハについては、バッハの「サラバンド」をロストロポービッチ(注1)がアラゴンの奥さんのエルザ・トリオレ(注2)の墓の前で追悼演奏したことがあり、そのことをアラゴンが詩に書いていています。口ストロポービッチの愛称をスラヴァというんですね。
 井上 ええスラヴァ。
 大島 とても感動的にスラヴァのチェロ演奏の雰囲気をうたっています。()その墓はパリの南七〇キロほどの田舎の、水車小屋の庭にあって、いまはアラゴンもそこに眠っています。
 井上 セバスチャン・バッハという大作曲家自体が時代を先取りした人ですから、無伴奏組曲は今でこそ最高の作品として演奏されています。しかし当時はほとんど演奏できなかったのではないかと思います。しかも一本の楽器だけで弾くわけですから、高級練習曲という扱いで十九世紀終わりまできた。組曲は一番短いのでも十七、八分かかり、全曲をステージで演奏した人はいなかった。それをカザルス十三歳のとき、バルセロナの楽器店で楽譜をひと目みてショックを受け、それから約十年勉強して、これで人の前に出しても大丈夫という見極めがついてから、二十五歳ではじめて公開演奏しました。ですから、これはピカソとも共通しますが、一つのできごとの中に最も美しいもの、最も真実なものを発見する知性と直感、それがずばぬけている。天才的だったと、それしかいいようがない。

 バルセロナで一度だけあった二人

 大島 天才には年齢がないというか…。アラゴンの二十歳代、エリュアールでも同じですが、シュールレアリスムに入るとき、ピカソは三十代前半ですがもう大家なんです。革新的な先輩として彼らが名を挙げたなかに、とっくに死んでいるボードレールやランボオなどと並んでピカソが入れられている。しかもピカソはエリュアールの詩集に挿画を描いてやったり、後には二人でパートナーとして発展していく。そういう芸術上の若さもあった。
 井上 カザルスとピカソは、カザルスの方が五歳年上ですが、十九世紀末の同じ時期を二人ともバルセロナで育つんですね。当時のバルセロナは騒然としていて、何か熱気があったようです。
 大島 革命的な空気が強く、とくにアナーキズムの運動が盛んで、ピカソは、直接的にデモなどにも加わって民衆の空気に触れています。街頭でアナーキストがつかまったりするのを見ていて、それを描いたデッサンなども残っています。
 井上 二人は一度だけバルセロナで会ったことがあるようですね。一八九〇年、ピカソがまだ美術学校の学生のころで、カザルスは「そのころくから私は彼の仕事に敬服していた。だが、どうしたことか、パリでは、二人の道は相交わることはなかった」といっています(注3)。どうしたことかというのは、カザルスがパリに出てからはすぐ大家になってしまって多忙で、ピカソも第一次大戦のころパリに住みますが、カザルスはちょうどアメリカに移っていたり…。その後も、カザルスはバルセロナに帰って労働者の音楽協会をつくったり、自分のオーケストラをつくったりしていたからです。
       (つづく)

 注1 口ストロポービッチ(一九二七年〜)=ソ連のチェリストで一九七四年に亡命。カザルスに次ぐ世界最高のチェリストで指揮者。ワシントンのナショナル響音楽監督で首席指揮者。
 注2 エルザ・トリオレ(一八九六〜一九七〇年)=ロシア生まれの作家。アラゴンとの恋愛は有名。『赤い馬』など多くの小説をフランス語で書いた。
 注3 『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(新潮社)

<「赤旗」1989.1.10>
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