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ロシヤン・バレーとオルガと(上)

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 ロシヤン・バレーとオルガと

  一九一六年四月、若い詩人ジャン・コクトオが音楽家エドガー・ヴァレーズに連れられて、シェルシェ街にピカソを訪問する。窓の下に、モンパルナスの墓地が見えた。おしゃべりでいつも舞台にいるように振舞う若い詩人に、ピカソは興味をおぼえる。コクトオは、戦時という時期と状況からみて突飛な計画──ロシヤン・バレー「バラード」(演出ディアギレフ、脚本コクトオ、音楽エリック・サティ)の企画をうちあけ、その舞台装置と衣裳の制作をピカソに要請する。
 ところで、ピカソをはじめ若い画家たちはディアギレフについて何も知らない。またストラヴィンスキーの「春の祭典(サクル・デュ・プランタン)」の物議をかもした演奏会にも、画家たちは姿をみせない。コクトオはそのことに注目していた。
 東洋的で、豪華で、象徴主義的なロシヤン・バレーは、簡素なキュビスムとは明らかに正反対のものである。またバレーの観客は、むろんモンマルトルのメドラノ・サーカスやシャンソン喫茶の客筋とはちがっていた。コクトオは書く。       
 「ピカソは信条として豪華(リュックス)を排斥しているが、それにはよい面と悪い面がある。」なぜならそれは「ある芸術家たちの視野を狭くするからだ」そして結論する。「やはりモンパルナスの画家たちは『春の祭典』を知らない。コンセル・モントオによって演奏された『春の祭典』は、悪しき左翼紙によって被害をこうむった。ピカソが初めてローマでわたしといっしょにストラヴィンスキーを聴いたのは一九一七年であった。」
 つまりパリには芸術上の右翼と左翼が存在した。いまはその二つを和解させ、ディアギレフに現代絵画をみとめさせ、ピカソに装飾的で詩的なバレーの仕事に参加させることがコクトオの課題となる。それはバレー「バラード」を機会に実現することになる。
 一九一七年二月、コクトオはピカソを連れてローマに行き、ディアギレフに紹介し、バレー団に合流する。コクトオは語る。
 「わたしは彼をローマへ連れて行った。ピカソのとりまき連中は、彼がわたしに随いて行くとは考えてもみなかった。(キュビスムという)ひとつの独裁が、モンマルトルとモンパルナスを支配していた……カフェのテーブルにあるような物(オブジェ)、スペイン風なギターなどが、許された唯一の悦びであった。舞台装置を描くなどとは……犯罪であった」
 ところで、旅行にでかけ、気分を変え、画を変えようとしていたのは、ピカソの方であった。恋人エヴァの突然の死に出合って、ピカソはすっかり意気消沈し、パリで退屈していた。その上、戦争に友人たちは動員されて散りぢりになり、もうブラックと語りあうこともできなかった。
(つづく)

<新日本新書『ピカソ』──キュビスムの時代>

ジャン・コクトーと

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